寛永末年、ことに同一九年は全国的にみて、大飢饉の年でもあった。『大猷院殿御実紀』の寛永一九年七月の条には、「今年春より米価騰貴して、斗米銀九匁余にかふるにいたれば、諸民困窮し、小糟、糠酎の粕などを食し、飢をしのぎかねたり」と述べられている(『新訂増補国史大系』四〇)。また、『長崎オランダ商館の日記』には、「大坂では常食である米の値段が甚だ高く、常人は妻子を養うことができず、餓死する者が多い。八〇斤の粗悪米一俵の値段が三〇匁である。多数の貧民は奉行所に押掛けて生存する方法の指示を嘆願したので、奉行はかれらを慰め、急使を出して幕府に報じ、一方大坂城内の米穀および食糧品倉庫を開き、廉価で貧民に分配したため騒擾は鎮まった」と記されている(村上直次郎訳『オランダ商館の日記』一)。
一九年だけでなく、前年の一八年も大飢饉で、一八・九年の両年は、近世の三大飢饉にも比すべきであるといわれた。寛永一八年の凶作の結果、幕府はその対策に留意すべく高札をたて、一般の注意を促したといわれる。主要な関心は凶作に便乗して、年貢収納に支障をきたすことを警戒したものであった。また、翌一九年五月一四日には、幕府政権担当の要路者たる松平信綱、阿部忠秋、阿部重次、朽木稙綱らは高札の文面に、諸国の田畑の荒廃をいましめ耕作に精励し、田畑の収穫物を掠奪して年貢納入を困難にする者は処罰する、との文言を掲載するよう申し達しせしめている。同月二四日付の法令にも、農民生活の各方面全般につき奢侈を禁じ、細かい規定を申し定めている(児玉幸多編『近世農政史料集』(江戸幕府法令上))。
翌一九年も前年におとらぬ飢饉災害の年であったといわれている。当市域でないが、隣国の岸和田藩領内に対し、京都所司代板倉周防守重宗を始め「八人衆」の連名で、同年一一月二六日づけの触状がある。その内容は、田畑の作柄の損毛がない箇所にもかかわらず、年貢納入をしぶる百姓に対し、籠舎に入れるというもので、前述した法令と同じ趣旨のものであった(『泉佐野市史』)。上方支配の中枢ともいうべき八人衆からの触状として、興味深いものがある。
さて、同年の寛永一九年七月二五日づけで、上方郡代たる五味豊直と小堀政一の両人から、富田林地域の支配代官たる松村吉左衛門尉にあてた触書と、その請状の写しがある(杉山家文書(京都大学総合博物館蔵)「御用留日記」)。それは以下のとおりである。
覚
[(1)(挿入)]一村々耕作、当年ハ別而精を入可レ申候、不精之輩可レ為二曲事一事
[(2)(挿入)]一当年ハ在々ニ而新酒作間敷候、冬作之儀者追而可二申付一事
[(3)(挿入)]一当年ハ在々ニ而、うんとん(饂飩)・切麦・そうめん・まんちう(饅頭)其外何にても、五穀之費ニ成候物商売仕ましき事
[(4)(挿入)]一当年ハ在々ニ而たうふ(豆腐)仕間敷事、但大キなる宿津所之儀者、其所之代官給人より可二申付一事
[(5)(挿入)]一在々百姓食物之儀不レ申レ及、当年ハ大切之儀ニ候間、雑穀多不レ給候様ニ可レ致二用捨一事
[(6)(挿入)]一百姓之衣類男女共ニ、此已前如二御法度一、庄屋ハ絹紬・布木綿可レ着、わき百姓ハ布木綿可レ着、右之外ゑり帯等ニも仕間敷事
[(7)(挿入)]一よめとりなと仕候共乗物不レ可レ用事
[(8)(挿入)]一百姓之屋外不レ応二其身一儀、自今已後仕間敷事
[(9)(挿入)]一祭礼・仏事等ニ至まで、其所不レ応二其身一儀仕間敷事
[(10)(挿入)]一荷鞍ニもうせんかけのり申間敷事
[(11)(挿入)]一来年より御領・私領共ニ、本田ニたはこ作間敷由、堅被二仰出一候、若作候者ハ自今以後新地をひらき作可レ申事
[(12)(挿入)]一所々御蔵詰致候時、百姓より手代立合候而、欠米入用等入レ念、書付置可レ申候、御蔵衆之納帳ニ引合、以来可レ令二吟味一候、御蔵詰致候時、郷中より罷越才料之もの、入用等こままかに書付置可申候、不作法ニいたし、入用多、小百姓ニ打かけ出させ候ハゝ曲事ニ可二申付一候事
[(13)(挿入)]一御年貢米、もみ・ぬか・くたけ米無之様ニ、俵以下念を入可レ申事
[(14)(挿入)]一郷中公事諸役之入用、年切ニ庄屋・小百姓不レ残立合相極、其帳ニ申分無レ之と連判仕、手代方へ可二上置一事、若、年を越勘定仕候族於レ有レ之者、急度曲事ニ可申付候事
[(15)(挿入)]一当年ハ百姓草臥申、大切之年ニ而候間、在々ニ而諸勧進入申ましき事
[(16)(挿入)]一当年ハ在々ニ而相定役儀之外、人足つかひ申間敷候、若不レ叶役儀ニ而人足つかひ候ハゝ、定之ことく其御用之品を書付、手代之者より百姓方へ手形可二出置一事
[(17)(挿入)]一連々如二申付一、毎年之免割帳庄屋小百姓不レ残立合判形仕、其代官へ可二上置一事
[(18)(挿入)]一田方ニ木わた作申ましき事
[(19)(挿入)]一田畑ニ油之用として、なたね作申間敷事
[(20)(挿入)]一御領所在々所々に山林可レ仕所於レ有レ之者、木苗を植置、山林を仕立、以来ハ其村々たすけにも罷成候様ニ可レ仕事
右之通、在々所々不レ残無二油断一可レ被二申付一候
午七月廿五日 五味金右衛門
小堀遠江守
松村吉左衛門尉殿へ
右御法度書写仕候有難奉レ存堅可三相守二此旨一者也
七月
松村吉左衛門尉判
右ハ寛永十九年
午七月御書付 とんたはやし庄屋百姓中
この史料文と同一の触書が、河内の丹北郡を中心とした平野藤次郎代官所の支配の村々に対し(『松原市史』三)、また、古市郡を中心とした末吉孫左衛門代官所の支配の村々に対しても(『羽曳野市史』五)、それぞれ下達されているところからみると、当時、上方郡代の二人から、それぞれの代官所に触れ渡されたものとみてよい。
寛永一八~九年と全国的な大飢饉に遭遇したので、農民の日常生活への各方面にわたる干渉・統制が、非常につよくなってきている。(2)・(3)・(4)・(5)・(6)・(7)・(8)・(9)・(10)の各条項がそれであり、村内での新酒の醸造の禁止や、雑穀を日常の食物とし、在村での五穀類を材料とした食品の販売の禁止、衣類の制限や住居への規制の諸条項があげられる。つぎに、耕地や農作物への規制がみられ、(1)・(11)・(18)・(19)・(20)の各条項が該当する。本田に煙草・木綿・菜種(畑にも)の植付の禁止、山林の育成に留意すべきことなどが、その内容である。ほかに、貢租の納入・課役の賦課などをその内容とした条項がある。(12)・(13)・(14)・(16)・(17)の各条項がそれであり、貢租米の品質の吟味、俵拵への配慮、蔵詰や諸入用についての記載や、毎年の勘定だて、年貢免割のときの心得、本年については農民への賦役割当ての禁止などの諸内容を含んでいる。これらの条項がやがて整理・集大成され、幕領農村のみならず、諸国郷村を対象とした「慶安御触書」として、近世農村生活への統制・維持のための法令となり、結実されていくのである。