徳川氏の代官支配の時代を経て、富田林村を中心として、石川郡の周辺村落の支配領主は、明暦二年(一六五六)八月から、京都所司代牧野佐渡守親成(ちかしげ)となり、寛文八年(一六六八)五月まで継続した。石川郡内の所領の村々は、市域においては、富田林・毛人谷・新堂・喜志の諸村のほかに、中野・新家・板持・山中田・北大友・南大友・南別井・北別井の村々に及び、市域外に属するが、神山・森屋・川野辺(かわのべ)・芹生谷(せりうだに)・寛弘寺之内・山城・大ケ塚・一須賀・太子・春日・山田の諸村をも含み、石川郡では合計、一万四一七三・四九三石であった。ほか、高安・大県・古市・安宿・志紀・讃良の諸郡や、摂津国嶋下・嶋上両郡の村々にまで及んでいた(表12)(『寛文朱印留』上・「牧野氏領知目録」(舞鶴市郷土資料館所蔵))。
国名 | 郡名 | 村名 | 村数 | 領知高 |
---|---|---|---|---|
石 | ||||
河内 | 石川 | 新家・喜志・中野・新堂・富田林・毛人谷・板持・山中田・北大友・南大友・寛弘寺之内・神山・森屋・川野辺・芹生谷・南別井・北別井・山城・大ケ塚・一須賀・太子・春日・山田 | 23 | 14173・493 |
高安 | 楽音寺・大竹之内・水越・神立・千塚・大窪之内・山畑・服部川・郡川・黒谷之内・教興寺之内・垣内・恩知 | 13 | 4073・852 | |
大県 | 法善寺・神宮寺・平野・大県・太平寺之内・安堂・高井田・青谷・雁多尾畑之内・本堂・峠之内 | 11 | 3628・98 | |
古市 | 誉田・古市 | 2 | 1949・194 | |
安宿 | 国分之内・片山・円明 | 3 | 1851・428 | |
志紀 | 田井中 | 1 | 400・526 | |
讃良 | 瀧(竜)間之内 | 1 | 45・214 | |
摂津 | 嶋下 | (村名略) | 7 | 4512・09 |
嶋上 | (村名略) | 6 | 1965・223 | |
総計 | 32600,000 |
注1)「寛文四年四月牧野佐渡守親成領知目録」(舞鶴市郷土資料館所蔵)による。
2)数値は原史料の記載をそのまま記した。
牧野氏は清和源氏の出自というが、明確ではない。祖先の定成・康成は三河国に居住、始め今川氏に属し、のち徳川氏に仕えた。牧野親成の父たる信成は、正保元年(一六四四)三月下総関宿藩に入封し一万七〇〇〇石を与えられ、同二年から家綱に仕えて功績があり、日光東照宮遷宮の使者として日光山に赴き事に当たった。同四年致仕し隠居料として、武蔵国石戸(いしど)領五〇〇〇石を与えられた。
親成は父の信成の二男として生まれたが、兄の早世のため、嫡子となった。将軍家の小姓に召し出され、寛永九年(一六三二)一二月、従五位下佐渡守に叙任した。翌一〇年正月、御膳番、同年八月徒頭となり、上総国高根村の内で禄一〇〇〇石を与えられた。同一九年書院番頭に昇進、正保元年三月四〇〇〇石を加増され、父の旧領一〇〇〇石を併せ、すべて六〇〇〇石を領有した。正保四年に襲封して二万二〇〇〇石を与えられ、下総国関宿藩主となった。承応二年(一六五三)九月、久世広之・内藤忠清・土屋数直らとともに将軍家綱の側近で、交代に宿直を仰せつけられた。同三年一一月、京都所司代に就任し、河内国高安郡で一万石を加増された。明暦二年(一六五六)八月に関宿から転じて、摂津国嶋上・嶋下両郡、河内国石川・古市両郡をあわせ、四郡内で二万二六〇〇石を拝領し、高安郡などの領地とともに、三万二六〇〇石となり、従四位下に昇進した。
所司代在任中は、前任の板倉父子の所司代の治政をうけ、法令を整え、従来の二一条に加えて九条を布告し、京都市中諸法度として完備させた。板倉父子と牧野の京都所司代は、所司代としての畿内・西国の治政以外に、京都市民の民政を直接に担当していた。この時代に、幕府による京都支配の基礎が固められたが、その基本となったのが、このときの市中法度である。訴訟や相続、商売や町の治安などにつき規定されており、京都市中の民政が所司代から京都町奉行に移管されてからも、京都市中の基本法典として重視された。所司代の在役中、黄檗山万福寺建立の寺地選定に関与して、開山隠元禅師と親交を結んだといわれる。牧野氏は京都所司代の時期に、富田林村ほか石川郡の諸村を領有したが、幕府の畿内・西国支配の重職でもあった京都諸司代の所領であったことは、この地域の重要性を物語るものといえる。親成は、寛文八年五月、一五カ年の在職で所司代を辞任したのち、幕府の京都北辺地域の譜代大名領化の政策のもとで、丹後国田辺(現舞鶴市)へ所替えを命ぜられ、摂河の領地はすべて同国加佐郡内の三万五〇〇〇石に移され、市域の村々との関係はなくなったのである(「御系譜」舞鶴市郷土資料館所蔵・『新訂寛政譜』)。