牧野氏の支配の時代が終わり、ふたたび、幕府代官長谷川久兵衛の所領となった。代官長谷川久兵衛正清は、藤原氏の流れをくむといわれ、久兵衛ははじめ将軍秀忠に仕え、畿内の幕領を巡見した。のち、御勘定となり、城米のことで上方に赴き、美濃・伊勢両国の水損地を巡検し、片桐石見守貞昌に付き添って、東海道・畿内の諸国の堤普請の検分などに従事した。その後、組頭に進み、寛文六年(一六六六)に幕命により宮津に赴いたこともあった。同八年四月に代官に就任し富田林村などを支配した(『新訂寛政譜』一四)。
寛文八年九月の年紀のある「富田林村五人組帳」は、この村が譜代大名牧野氏から幕領代官領に支配替えになったとき、富田林村の年寄一〇人の連名で、代官長谷川久兵衛正清に差し出したものである。村中で六六の五人組、三三三人が請印を押しており、二八カ条の条文によりなる。寛文期は近世の小農民の成立過程の一時期とされているが、条文の数も多岐にわたり、より具体的となり、長文になっている(近世Iの七)。以下、箇条書きに条文の要旨を述べてみたい。すなわち、
(1)公儀からの法令の厳禁と村中への周知・徹底、(2)キリスト教の厳禁と信者の探索、(3)田畑耕作への専念と年貢納入期日の厳守、(4)農民の衣服統制、(5)ひとり身の農民への耕作助成、(6)人身売買の厳禁と長年季奉公期間一〇カ年の厳守、(7)・(8)年貢納入に際しての具体的心得、(9)農民への夫役の割賦、(10)山林・竹林などの勝手な伐採禁止、(11)村中の防火・防災のこと、(12)農民の徒党の禁止、(13)酒造りの統制とその行商の禁止、(14)農民の米食の禁止、(15)神事の祭礼・葬式・年忌などの仏事、婚礼の祝儀などの制限、(16)村内の無職者、挙動不審者への取締、(17)武家の手代衆など廻村のときの接待の心得や、郷中村々への不作法の禁止、(18)田畑永代売買の禁止や質入れのときの心得、(19)浪人などの挙動不審者の取締、(20)負傷者・欠落者の届出のこと、(21)絹・紬・布木綿類の布幅などの規定、(22)毎年春・夏両度の堤・川除諸普請のこと、(23)本田畑への煙草の作付の禁止、(24)博奕・諸勝負の禁止、(25)年貢未進の村々につき、虚偽の報告の禁止、(26)年貢銀の着服・逃亡の禁止、(27)印判の保管・貸借などの禁止、(28)代官衆への礼物などの禁止。
以上、煩雑ながら条文の要旨をあげたが、寛永期の新堂村の五人組帳の条文と比較してみたい。寛文期の五人組帳はその条項が増加し、キリシタンの禁制、浪人不審者の取締のほかに、年貢納入につき詳細な規定や酒造制限、酒類の行商の禁止、農民の米食の禁止や衣服などの統制、本田畑への煙草作付の禁止などを含め、村落日常生活へのこまかい干渉のほかに、武家の家中への対応など、寛永期に比較して、新しい条項が数多くみられるのがその特色である。こうした長谷川代官の支配も一カ年で終末を迎え、山城淀藩による支配の時代を迎えることになった。