豊臣秀吉が天下統一の基礎的事業として行った太閤検地は、それまでの戦国大名の検地が指出が中心で地域的にも限られていたのに対し、同一基準のもとに全国的な規模を持つものであった。これにより、農民が保有する耕地や屋敷一筆ごとの小字・地目・地積・品筆・分米・名請人が決められ、村高(村の規模)が確定された。直接生産者である本百姓の土地保有が明確化され、村落支配・年貢村請ができるように出作・入作を整理して近世村落の村境が確定されたのである。それは、中世末の荘園の名・保あるいは土着の小領主であった名主層の郷村が新たに領主支配の単位として輪郭を明らかにしたことであり、近世の土地制度および村落の確立を意味した。
市域の村々における太閤検地は、文禄三年(一五九四)に実施された。検地帳が残されているのは、錦部郡彼方・錦郡・板持の三カ村だけであるが、同郡廿山村・石川郡富田林村についても、後代の村明細帳や願書などにより同年の検地が知られる(近世Ⅱの一・二、Ⅷの一・五、富田林勝山家文書「減免訴状(仮題)」)。
現在のところ、河内国の検地条目は確認されていないが、和泉国において同三年八月二日付けで発せられた「御検地御掟条々」によると、検地実施の要領は次のとおりであった(『貝塚市史』三)。すなわち、田畑・屋敷地は六尺三寸竿を用い三〇〇歩一反として検地すること、一反当たりの石盛(標準収穫高)である斗代は、原則として上田一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、下々田見計らい、屋敷地一石二斗などとし、等級区分には水利事情・裏作・日損・水損などを勘案すること、山手銭・浜小物成などの雑税は、村に指出の提出を命じ、それを査定したうえ徴収高を決定すること、村切りをして牓示を立て、入り組みのないようにすること、検地奉行は、検地帳を農民にも写させて請状を取り、以来斗代違い・竿違いがないように申し付けて在々の検地帳に押印すること、などがその内容であった。