耕地形態と階層構成

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現存する三カ村の検地帳は、いずれも写本である。彼方村のそれには、日付けは文禄三年(一五九四)一一月九日とあるが、検地奉行名は記載されていない。錦郡村は、日付けが同年一一月二七日、検地奉行が増田右衛門尉、検地役人が平井弥四郎・丹治新右衛門であり、当時土地生産力が低いとみなされたためか、六尺五寸竿が用いられた。また板持村については、日付けが同年一一月、検地奉行が宮木藤左衛門となっている。

 太閤検地によって、村高は彼方村五七三石八升、錦郡村一二三七石一斗、板持村七二七石九斗三升となった。村高は課税標準としての石高であり、年貢はこれに租率を掛けて算出された。すべての土地を石高で表示する石高制は、兵農分離とあいまって農民を専制的な身分制支配のもとに置くとともに、領主権力編成の基準ともなる体制原理であった。市域の村々のほとんどは秀吉の直轄領であったが、錦部郡においては、検地が実施された直後の同年一二月、嬉村二一九石五斗をはじめ、錦郡村一二三七石一斗のうち三五八石四斗八升、彼方村五七三石八升のうち四九石八升、廿山村五三八石三斗五升のうち三八石三斗五升が北条氏規の所領として宛行われた(第二章第一節参照)。

 彼方村と錦郡村の耕地形態を見ると、表13のとおりである。錦郡村の耕地形態は水田に極度に偏重し、総反別のうち田方が八四・四%を占めている。彼方村では、田方の比率は六八・五%とやや低いが、荒地が全体の一二・九%に相当する六町九反余に達していた。そのうち反別五町四反一畝一〇歩、分米四二石八斗一升五合の田畑は、検地帳に「主無」と記されている。耕作が放棄されて荒地化した経緯は明らかでないが、戦乱期の影響が色濃く残っていたと考えられる。なお、ほかに「惣作」の田畑として六反七畝(分米六石二斗四合)があった。

表13 文禄3年(1594)の耕地形態
区分 彼方村 錦郡村
反別 (分米) 反別 (分米)
上田 2556.26 (304.631) 3722.08 (558.340)
中田 404.00 (52.289) 2566.18 (333.658)
下田 696.22 (65.545) 1741.08 (191.540)
下々田 77.14 (6.197)
小計 3657.18 (422.465) 8107.18 (1089.735)
上畑 447.28 (53.674) 282.29 (33.960)
中畑 147.28 (13.646) 231.04 (23.110)
下畑 312.00 (18.556) 480.10 (32.667)
下々畑 70.04 (3.700)
屋敷 87.03 (10.354) 123.29 (16.116)
荒地 690.06 (54.385) 305.27 (37.812)
小計 1685.05 (150.615) 1494.13 (147.365)
合計 5342.23 (573.080) 9602.01 (1237.100)

注)近世Ⅱの一・二により作成。

 次に、当時の階層構成を示すと、表14のとおりである。各村の特徴を指摘すると、彼方村は、いま述べた主無・惣作のほか、板持村・向田村からの入作地などを差し引いた五一〇石余が村民の保有高であった。五石未満の零細高持層の戸数比率が七六・四%に及び、二〇石以上の上層農民は三戸にとどまる。このため、五石から二〇石までの中農層は、二一・五%の戸数比率であるが、持高比率については三カ村のなかではもっとも高い五八%となっている。錦郡村も、中農層の持高比率が四八・二%と高い水準にあるが、二〇石以上層が一五戸もあり、三三・一%の高を占めている。五石未満層は、戸数比率が六七・五%、持高比率が一八・七%と相対的には少ないことが判明する。

表14 文禄3年(1594)の階層構成

 板持村では、主無の反別が五町四畝八歩(分米二三石六斗四升八合)、惣作のそれが二反四畝二三歩(分米二石四斗八升九合)であったが、富田林・彼方・東板持・向田・山中田などの村々からの入作地も多く、村民の保有高は村高から九〇石余を減じた六三七石余であった。持高の懸隔がきわめて大きく、二〇石以上層は四戸だけであるが、そこには五七石六斗四升八合の大高持が含まれていた。その一方で、五石未満層が戸数比率で八二・六%と圧倒的な多さを示し、持高比率も上層農民を超えて中農層に近い数字になっている。