慶長検地

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徳川家康が慶長五年(一六〇〇)関ケ原の役で覇権を握り、同八年二月江戸に開府したのに伴い、豊臣秀頼は大坂城主で摂河泉三カ国の一大名と化した。そして、かつての秀吉の直轄領のうち、秀頼の所領として引き継がれた村々においては、検地が断続的に行われることになった。それらの検地を慶長検地というが、石川郡・錦部郡では慶長一三年に片桐市正を検地奉行として実施された。ほかにも河内国では、慶長検地は同六年・八年・九年・一二年・一六年・一七年にも行われたが、いずれも、当時の緊迫した政治状況を反映して峻厳なものであったと伝えられている(竹安繁治『近世土地政策の研究』)。

 石川郡大ケ塚村(現河南町)庄屋の『河内屋可正旧記』には、「市正殿御検地の事すぐれてきびしかりけり、此検地に逢たる国々所々今において難儀せずと云事なし、其故は分米高くして畝不足也」と記されている。その結果、「田畠を多く持し者は還而難儀に及べり、予が祖父了西等は始より田畠多く所持せし者なるが、樽肴を添て皆もらかした」という。いま「畝不足」の実態は明らかでないが、全般的な斗代の引き上げを見るために、文禄三年(一五九四)の太閤検地と慶長一三年検地の斗代を比較すると、表15のとおりである。また、富田林村においても、文禄三年検地のときの村高七三石六斗七升が慶長一三年の検地によって九三石一斗九升八合となり、一・二七倍の高が打ち出された(第三章第一節参照)。

表15 村々の斗代
区分 太閤検地 慶長検地
彼方村 錦郡村 板持村 新堂村 毛人谷村 喜志村 山中田村 北大伴村 龍泉村
上々田 1.700 1.700 1.800 1.600 1.700
上田 1.500 1.500 1.500 1.600 1.600 1.700 1.500 1.600 1.800
中田 1.300 1.300 1.300 1.500 1.500 1.600 1.400 1.500 1.600
下田 1.000 1.100 1.100 1.400 1.400 1.400 1.200 1.400 1.400
下々田 0.800 0.800 1.000 1.000 1.100 1.200
上々畑 1.200 1.300
上畑 1.200 1.200 1.300 1.300 1.300 1.100 1.200 1.200 1.000
中畑 0.900 1.000 1.100 1.100 1.100 1.000 1.000 1.100 0.800
下畑 0.800 0.800 0.800 0.800 0.800 0.800 0.700 0.900 0.600
下々畑 0.500 0.500 0.500 0.600 0.700
屋敷 1.200 1.300 1.300 1.600 1.300 1.300 1.200 1.200 1.200

注)近世Ⅰの二・四・五、Ⅱの一・二・三、Ⅷの一、「富田林市域とその周辺の村様子明細帳」(『富田林市史研究紀要』4)、龍泉草尾家文書「検地帳」により作成。

 慶長一三年に検地を受けた村々のうち検地帳が残されているのは、石川郡の北大伴村と龍泉村である(近世Ⅱの三、龍泉草尾家文書)。まず北大伴村は、検地役人が林又右衛門・玉井助兵衛、検地帳の日付けが一〇月二八日で、村高が五八〇石四斗六升となった。龍泉村は、検地役人が牧次右衛門・田村平兵衛、検地帳の日付けが同月一九日であり、村高が三四二石三斗三升となった。

写真144 龍泉村の現景

 龍泉村の耕地形態は、表16のとおりである。佐備川流域の丘陵地に位置しながら、田方の比重がきわめて大きく、水田率は反別で七四・九%、分米で八三%であった。さきに述べた慶長検地の特質は、田方反別のうち六四・二%が上田に、畑方・屋敷のうちでも五七・六%が上畑に位付けされていることにうかがわれる。最上位の等級への集中は、検地による過分の高の打ち出しを意味したと考えられるからである。

表16 龍泉村の耕地形態〔慶長13年(1608)〕
区分 反別 (比率) 分米 (比率)
上田 1207.10 (64.2) 181.332 (63.8)
中田 459.27 (24.4) 73.584 (25.9)
下田 173.06 (9.2) 24.243 (8.5)
下々田 41.15 (2.2) 4.980 (1.8)
小計 1881.28 (100.0) 284.139 (100.0)
上畑 362.05 (57.6) 36.210 (62.2)
中畑 65.00 (10.3) 5.200 (8.9)
下畑 102.00 (16.2) 6.120 (10.5)
下々畑 4.20 (0.7) 0.188 (0.3)
荒畑 12.12 (2.0) 0.501 (0.9)
屋敷 83.03 (13.2) 9.972 (17.2)
小計 629.10 (100.0) 58.191 (100.0)
合計 2511.08 342.330

注)龍泉草尾家文書「検地帳」により作成。

 このときの階層構成を見ると、表17のとおりである。北大伴村では、五石未満の零細高持層が七五%に達し、持高比率は五石から二〇石までの中農層が過半を占めている。二〇石以上層は五戸を数えるが、二七石余が最高で突出した大高持は含まれていない。一方、龍泉村では、最高の高持が一五石四斗九升四合で、二〇石以上層が存在しないという特異な階層構成を示している。このため、中農層の戸数比率は四二・一%であるが、その多くが五石~一〇石に集中していて、持高比率は二二・一%にとどまり、五石未満の零細高持層のそれが七七・九%にも及んでいる。

表17 慶長13年(1608)の階層構成
区分 北大伴村 龍泉村
戸数 (比率) 持高比率 戸数 (比率) 持高比率
20石以上 5 (3.9) 21.2
10~20 14 (10.9) 52.4 8 (10.5) 22.1
5~10 13 (10.2) 24 (31.6)
1~5 59 (46.1) 26.4 30 (39.5) 77.9
1石未満 37 (28.9) 14 (18.4)
合計 128 (100.0) 100.0 76 (100.0) 100.0

注)近世Ⅱの三、龍泉草尾家文書「検地帳」により作成。