延宝検地

449 ~ 451

幕府領においては、延宝年間にも検地が行われた。同五年(一六七七)三月、幕府は上方幕府領の巡見を触れるとともに、古検の六尺三寸一間、三〇〇歩一反を改め、六尺一間、三〇〇歩一反とする検地条目を制定した。当時、連年の凶作で農民経営と幕府財政の窮迫が顕在化しつつあった。この二律背反ともいえる課題を解決するため、古検以後の田畑の地目転換、等級や土地生産力の変化など、耕地条件の現状把握が試みられたのである。検地には、幕府代官ではなく、幕府領村々と直接利害関係のない近隣の大名が当たった。河内国は、大和郡山藩本多出雲守政利と近江膳所藩本多兵部少輔康将の担当であった。

 石川郡甘南備村は、郡山藩主本多政利によって検地が実施された。検地惣奉行は深津内蔵助、検地役人は成田孫八郎・勝浦庄右衛門・佐藤兵右衛門・相場次郎右衛門・塩川新五兵衛の五人で、実施の期日は明らかでないが、新検地帳は延宝六年一二月二三日付けで交付された(錦郡田中家文書「検地帳」)。

 検地の結果は、表18のとおりである。新検では、六尺三寸一間が六尺一間になったのであるから、一般的には反別が増加するはずである。ところが、古検以後半世紀余りの期間における水利事情や耕地条件の変化などにより、新開の畑が新たに高入れされたにもかかわらず、反別八町七畝一五歩の「新検不足」が生じ、村高が古検の一七・六%に相当する一五七石七斗九升一合減少している。全体の七八・七%を占める田方で反別一町一反八畝一八歩が減じたほか、古検の村高には一一町四反八畝二五歩(分米一七二石四斗二升七合)もの無地・永荒・池床の高が含まれていたためである。なお、古検が太閤検地・慶長検地のいずれを指すのかは史料上知れないが、上々田に新検不足が目立ち、新検では控除の対象になっている無地増高や永荒地が多く存在していることから、古検は石高の打ち出しがきびしかった慶長検地であると推測される。

表18 甘南備村の延宝検地
区分 新検反別 (分米) 古検反別 (分米) 増減
上々田 1295.14 (220.226) 1491.01 ▲195.17
上田 400.04 (64.026) 455.15 ▲55.11
中田 985.13 (147.815) 1102.05 ▲116.22
下田 788.20 (102.527) 785.18 3.02
下々田 1094.06 (120.361) 848.06 246.00
小計 4563.27 (654.955) 4682.15 ▲118.18
上々畑 93.11 (9.339) 115.16 ▲22.05
上畑 110.23 (9.969) 104.04 6.19
(新開) 234.23 (11.737) 234.23
中畑 128.01 (8.963) 108.24 19.07
(新開) 38.15 (1.539) 38.15
下畑 173.22 (8.689) 135.12 38.10
下々畑 185.06 (7.407) 135.12 49.24
(新開) 68.02 (1.360) 68.02
屋敷 199.08 (23.912) 172.15 26.23
小計 1231.21 (82.915) 771.23 459.28
無地他 1148.25 (172.427) ▲1148.25
合計 5795.18 (737.870) 6603.03 (895.661) ▲807.15

注)錦郡田中家文書「検地帳」により作成。

 このとき本高に結ばれた新開畑の反別合計は、三町四反一畝一〇歩(分米一四石六斗三升六合)であった。これは、延宝五年から新開が行われ、年貢は四年後の酉年(天和元年)から納入される課税予定地であった。検地実施の際すべて耕地化が完了していたわけではなく、延宝五年の検地条目における「一両年ニも新開ニ成候所ハ、百姓相対之上、致検地、高ニ入レ可申候」との規定が適用されたものと考えられる。

 次に、階層構成を見ると、表19のとおりである。村高七二三石余のうちには惣作が九二石余含まれ、ほかにも吉年・中津原・小吹などの周辺村々(現千早赤阪村)からの入作地が多く、村民の保有高は五八四石余であった。そのうち一七・五%の高を保有するに過ぎない五石未満層の戸数比率が六二・三%に達している。持高比率は三七戸の五~二〇石層が五九・六%を占めて中核をなしている。二〇石以上層は三戸で、いずれも村役人を勤めていたが、そこでの最高は七四石七斗四升二合という大高持であった。

表19 甘南備村の階層構成〔延宝6年(1678)〕