郷村村高帳と市域の村落

452 ~ 460

市域の近世村落は、石川郡と錦部郡との両郡にまたがり、行政村としては、「河内国正保郷帳写」によると、石川郡で一五カ村、錦部郡で九カ村とあわせて二四カ村を数える。一八世紀中ごろにかけ錦部郡では枝郷や出在家が成立し、三カ村増加し二七カ村となった。一九世紀には「天保郷帳」によると、錦部郡では、錦郡(織)村に同新田が合せて記載されるので二六カ村となり、そのまま、明治維新期を迎えた(表20)。こうした近世村落の支配領主が、どう変遷したかの概略について、主として、郷村村高帳などを通じ、たどってゆきたい。

表20 市域内村落の領主・村高
河内国正保郷帳写(『枚方市史資料』8)正保2年(1645) 河州知行処御給人村高付帳(中村家文書)天和元年(1681) 河内国村々高帳(『松原市史』3)元文2年(1737) 河内国天保郷帳天保5年(1834) 旧高旧領取調帳慶応3年(1867) (参考)河州一国之愡高辻(正保3年6月写)(杉山家文書)
石川郡 新堂 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 内海多次郎利貞
1684.287 1701.260 1727.630 1727.630 1727.630 1684.280
富田林 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 内海多次郎利貞
93.198 93.198 98.839 98.958 98.939 91.398
毛人谷 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 小堀数馬正明
644.857 674.857 680.212 650.212 680.212 674.857
新家 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 内海多次郎利貞
322.083 322.083 322.083 322.083 322.083
中野 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 内海多次郎利貞
627.837 627.837 658.779 658.779 658.779 627.837
喜志 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 内海多次郎利貞
1772.614 1801.890 1826.344 1826.694 1826.694 2096.397
下ノ水分者
1.7
南別井 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 大久保加賀守忠礼
240.084 240.084 246.168 246.168 246.168
北別井 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 大久保加賀守忠礼 (別井)
261.907 262.320 267.012 267.012 267.012 501.990
北大伴 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 石原清一郎正美
580.460 580.460 582.519 582.519 582.519
南大友 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 小堀勝太郎(数馬正明ヵ) (大供)
254.598 254.598 254.843 254.843 254.843 254.594
甘南備 松村吉左衛門時直 市岡理右衛門 平岡彦兵衛良久 石川近江守(播磨守総管)
885.026 885.026 332.019 737.874 737.774 845.026
(新田)7.212 石川近江守総茂
(播磨守総陽)
405.755
板持 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 小堀勝太郎(数馬正明ヵ) (板茂)
249.007 249.007 258.562 258.562 258.562 249.007
龍泉(寺) 松村吉左衛門時直 石川若狭守総良 石川近江守総茂 石川若狭守総管
(播磨守総陽)
322.055 322.055 342.330 342.330 342.330 142.330
石川主殿頭憲之 本多隠岐守康慶
7.275 7.275
龍泉寺灯明料
3.000
山中田 松村吉左衛門時直 石川主殿頭憲之 松平左近将監乗邑 大久保加賀守忠礼
453.439 453.439 453.439 454.412 454.412 453.419
佐備 石川主殿頭忠総 本多隠岐守康慶 本多主膳正康敏 本多主膳正康穣
955.895 970.595 989.456 1000.491 986.322 955.895
錦部郡 新家 石川主殿頭忠総 本多隠岐守康慶 本多伊予守忠統 本多伊予守忠貫
202.080 202.080 202.429 202.429 202.429 202.080
向田 石川主殿頭忠総 本多隠岐守康慶 本多伊予守忠統 膳所藩領分
(本多伊予守忠貫)
800.810 804.112 641.592 831.524 621.536
御料 小堀数馬正明
209.988 209.988 800.810
伏山新田 本多伊予守忠統 (甲田村技郷) 小堀数馬正明
126.580 126.580 128.032
彼方 北条久太郎氏宗 北条伊勢守氏治 北条遠江守氏朝 狭山藩領分 573.080
97.300 97.080 (相模守氏貞) 97.080
97.080
石川主殿頭忠総 本多隠岐守康慶 本多下総守
476.000 478.800 本多主膳正康敏 (主膳正康穣)
502.429 601.920 504.840
伏見堂 石川主殿頭忠総 本多隠岐守康慶 本多伊予守忠統 本多伊予守忠貫
297.000 308.760 346.298 337.461 297.000
北条久太郎氏宗 北条伊勢守氏治 北条遠江守氏朝 狭山藩領分
(相模守氏貞)
219.600 219.600 219.600 219.600 219.600 219.600
板持 小出大隅守有棟 小出大隅守有棟 小出主水有相 小出山城守
744.900 749.830 749.063 749.863 749.063 727.930
本多隠岐守康慶 本多伊予守忠統
0.800 0.800
横山 小出大隅守有棟 小出大隅守有棟 小出主水有相 小出山城守
61.350 61.426 61.603 61.603 61.556 61.406
錦郡 北条久太郎氏宗 北条伊勢守氏治 北条遠江守氏朝 狭山藩領
(相模守氏貞)
358.480 358.480 358.480 1630.588 358.480 1237.100
甲斐庄喜右衛門正述 甲斐庄飛弾守正親 甲斐庄喜三郎正寿 甲斐庄帯刀正光
878.620 884.880 1039.260 1033.098
錦郡新田 狭山藩領
51.448
甲斐正喜三郎正寿 甲斐庄帯刀正光
181.400 181.400
廿山 北条久太郎氏宗 北条伊勢守氏治 北条遠江守氏朝 930.0597 狭山藩領
38.350 38.350 (相模守氏貞)
水野半左衛門守政 水野半左衛門守政 63.1986 88.7163 538.300
500.000 500.000 水野河内守忠富 水野監物
834.8104 813.5215
本多伊予守忠統
6.533
加太新田 北条遠江守氏朝
(相模守氏貞)
25.5677
水野河内守忠富 (廿山村枝郷) 水野半左衛門(但馬守忠昌ヵ)
321.278 321.2786 346.8463

 一七世紀の前半は、市域の石川郡の村落はそのほとんどが、幕府の代官支配の下にあった。具体的には、たとえば、「河内国正保郷帳写」によると、佐備村が近江膳所藩石川主殿頭忠総の所領であり、龍泉(寺)村が同じく膳所藩と松村吉左衛門時直の代官支配地が入り組んでいたほかは、残りの村落がすべて、松村代官の支配地に所属していた。錦部郡の村々は、近世初頭から、在地の河内狭山藩北条氏や、和泉陶器藩小出氏の支配をうけ、寛永一一年(一六三四)からは、近江膳所藩石川氏の河内領が錦部郡のほか、石川郡の村々にできた。また、在地出身と伝えられる旗本甲斐庄氏の所領や、大和・近江・河内三カ国に支配地をもつ旗本水野氏の領地も、設定された。

 一七世紀の後半に入り、幕府をとりまく国内外にわたる客観的諸条件が安定し、畿内・西国統治体制の中心であった「八人衆」の時代に終止符をうつと、畿内の淀藩の河内飛地領が、石川郡の村々を主要な対象として設定された。その結果、石川郡の幕領の村々は、淀藩石川主殿頭憲之の所領となった。その一族たる伊勢神戸藩石川播磨守総長が、万治三年(一六六〇)大坂定番に就任、翌年から石川郡白木陣屋を中心に、約一万石の河内領飛地を与えられ、龍泉村の幕領が石川家の所領となった。錦部郡の村々は、支配領主の変化がなかった。

図16 市域所領配置図(正保期)
図17 市域所領配置図(元文期)
図18 市域所領配置図(幕末期)

 一八世紀に入り、このような情勢がしばらくつづき、石川郡の村々は、淀藩諸領主により統治されたが、松平乗邑(のりむら)の失脚後は幕領となることが多かった。一八世紀の後半になり、京都所司代・大坂城代・定番などの役職に就任した譜代大名らの役知になるときと、もとの幕領に戻るときとが交互する情勢が、しばらくつづいた。また、本多忠恒を藩祖とする河内西代藩が成立して、その所領が、河内では、両郡の膳所藩本多氏の所領をさき与えられ、市域の村々にも西代藩の所領が成立した。本多忠統(ただむね)のとき、享保一七年(一七三二)、河内西代から伊勢神戸に転封となったが、その所領はほとんど変わらなかった。

 一九世紀に入り、天保改革に際し、江戸・大坂周辺の上知令の発令があり、本市域の膳所・伊勢神戸両領の河内飛地領をはじめ、常陸下館藩石川氏などの所領や、一部旗本領も当然にその対象となったが、忠邦の失脚とともに上知令は中止となり、所領はそのままで維新期まで大きい変化がなくつづいた。

 郷村村高帳について、支配領主の変遷を中心に眺めてきた。さらに、各村落の村高の推移についても検討を加えておく必要がある。文禄期の古検のままで近世を経過し、その間に全く村高の変動がなかった村落と、新開・新田などの成立や、村高への高入れで村高が変化する村落がある。村落の概況や土地関係史料と対照することで、具体的に検討を加えることができる。新田が独立し本村から分離して行政村となったケースがあり、既述したところである。なお、参考欄の数字は、杉山家文書のうちに、正保三年六月と記名ある「河州一国之惣高辻」の村高である。史料の成立の年代は不明であるが、「河内国正保郷帳写」などに見える村名や村高よりも、明らかに年代的に古いものと思われる。後考にまつところが多いが、参考のため記入しておく。