郷村村高帳などを中心に、村落の実態と領主支配の変遷をながめてきたが、つぎに、それらとともに調進された国絵図類を中心として、村落の具体的な様相をあとづけたい。また、村落と関係深い道路、河川やその渡し、山地、寺社、古跡などについてもふれる。この際、郷村村高帳類と国絵図との両方から、村落を検討するとき、留意すべき点につき述べておこう。国絵図を中心とする古絵図が絵図という性格からして、一つの村がいくつかの集落に分かれていたり、枝村や出在家がある場合には、それを視覚的に表現していることが多いのに対して、郷村村高帳の場合には、収奪の対象として、貢租賦課の基準としての行政村の名を記すことがその主目的であるため、現実の集落の分かれを記すことは、第二義的になっている。以上のような、両者の史料としての性格の相違や表現の違いを、よく考慮して議論をすすめる必要があろう。
正保の国絵図では、市域が石川郡と錦部郡との両方にまたがっており、郡境は黒線で描かれている。「石川郡高弐万四千九百七拾壱石八斗九升七合」「錦部郡高壱万五千六拾五石九斗六升四合」と、郡の惣高の記載がある。市域は東に金剛山地と、西に羽曳野丘陵の山なみが描かれる。金剛山の頂上に記載ある建物は、転法輪寺とその坊舎と思われる。両山地の間の平野部に、石川が錦部郡の南から北へと流れ、喜志村の北端で石川本流と梅川とが合流し、さらに南の中野村の近辺で東条川が、板持村の付近で佐備川がそれぞれ合体している。石川はすべて架橋がなく歩渡りで、喜志村のところでは「歩渡七拾五間」、また、富田林村では「歩渡川巾一町五間」、毛人谷村では「歩渡川巾六拾間」、彼方村では「歩渡川巾五拾間」と書かれ、渡河の地点であったことがわかる。
つぎに村落と道路についてながめてみたい。市域の近世村落は、両郡ともに、正保国郷帳に記載の村落が、すべて、小判形の村形で記されている。郡別に色彩を変えて表示している。村落をつなぐ道路としては、石川の左岸に東高野街道がある。喜志村から市域に入り、南の方へ、中野・新堂・富田林・毛人谷・向田の各村から、錦織(郡)を経て、河内長野市の市村などへつづいている。ところどころに一里山の標識がみられ、現在、市の南端、錦織一里塚跡として、宝篋印塔の二基とともに跡地が保存されている。また、彼方村から伏見堂・横山・嬉の諸村を経由して、河合寺村へ通じる道路も、途中の各村落間の距離の記録がみられ、間道として記されている。
東西を通過する主要な幹線は、堺市中・美原町方面からの竹内街道が、平尾村から新家村を経て喜志村へ、さらに石川を徒渡りして対岸へ、そして太子村から上ツ飛鳥などを経て、竹ノ内峠に達する。新家村の入口付近で一里山の所在を記している。間道として、平尾村から富田林村への道を描き「是より富田林迄、一里八丁」と記され、羽曳野丘陵を通過し、富田林村に入る。そして石川をわたり、対岸の山中田村から、北大友(伴)・南大友(伴)両村を経て千早方面につながる。さらに、喜志村から石川を渡り北別井・南別井両村につながり、南進して水越峠を越え大和国に通ずる道がある。他方、毛人谷村から錦部郡板持村へと渡り、佐備村から龍泉村・甘南備村を通って、河南の名刹観心寺への間道が記され、「観心寺まで一里八町」と書かれている。もう一つの道は狭山新町から廿山(つづやま)村を通り、新家村を経て、向田村で東高野街道と合体する間道がある。廿山村のところに、「是より狭山新町迄弐拾七町」と書かれている。なお、道路については、第四章第二節で再論する。
ほかに、寺社や古跡などについては、市中の龍泉寺の所在や、龍泉嶽・金胎寺古城などの中世の山城の一部が記されているが、下水分神社・錦織神社やほかの寺院などは記入されていない。