市内の新堂の平井秀雄家には天保八年(一八三七)三月「家斉公諸国御巡見之節奉差上候絵図之写」と題する石川・古市・安宿部三郡の郡絵図がある。ほぼ、同じ三郡の郡絵図写が、千早赤阪村の建水分神社にも所蔵され、『羽曳野市史』別巻「羽曳野の古絵図と歴史地理図」にも、上記とほとんど同様の古絵図が収録され、解説をつけ加えている。また、河内長野市滝畑の大谷賢一氏は「河州錦部郡絵図(写)」を所蔵されるが、それには「此度従 御公儀様御国絵図被 仰付候ニ付、大坂御代官池田岩之丞様御役所江奉差上候写し 天保八年酉二月」とある。以上の郡絵図は、その成立がほぼ同時期であり、描写の対象や方法も類似しているので、これらの資料を使い、天保期の村落の具体相を検証してみたい。
郡絵図の内、石川郡をその対象としておくと、金剛山地や羽曳野丘陵などは黒色がかった濃い緑色で示し、東部の金剛山地は、二上ケ嶽・葛城山篠ノ峯・大日ケ嶽・阿弥陀ケ嶽・金剛山などと詳細に記され、その間に、穴虫峠・岩窟(屋)峠・竹之内峠・平石峠・水越峠・千早峠とその位置を記入している。河川は石川のほか、梅川筋・東条川筋・佐備川筋とそれぞれ記され、石川筋の喜志村の内川面村の箇所に、「川幅百八十間、平日板橋、出水之節舟渡し」とあり、富田林村の付近では「川幅七拾間、板橋」と注記している。双方ともに重要な街道が通過し、平素は板橋であるが、出水のときは渡し舟を使用したことがわかる。
街道は、前の「正保国絵図」にも記入のとおり、古市郡から南下する東高野街道と、古市村で交差して、堺市中から東進し石川を渡り、駒ヶ谷村、飛鳥村などを経て竹之内峠を通って大和国に向かう竹之内街道とが比較的に太い線で記入されている。古市村の対岸から大黒村・壺井村・通法寺村を通り、大ケ塚村からさらに南下し、市域の北・南両別井村を経て、現在の千早赤阪村の諸村落を通過し、水越峠へとつづいている。喜志村へは、丹南郡の平尾村から新家村の近辺を通り、喜志村の川面へと通ずる道路が描かれ、「正保の国絵図」に記載の竹之内街道であった。同じく平尾村から羽曳野丘陵を越え、毛人谷村・富田林村に通ずる街道がある。この街道も、「正保国絵図」に記入されており、富田林村から石川を渡り、対岸の山中田村から南大友村、さらに寛弘寺村・神山村を経て水分村に達し、水越峠へと通ずる重要な街道でもあった。また、山中田村から佐備川に沿い、佐備村の下・中・上の各村をとおり龍泉村に達し、甘南備村から小吹(こぶき)村へとつながる道があった。分かれて観心寺方面へも達しており、古くから存在する道で「正保国絵図」にも記されていたことは、既述したとおりである。これらの道路は、この地域の人々に利用され、「生活の道」として重要であったに相違ない。なお、富田林村から北上し、喜志村の宮村を経て西浦村へとつづく道は、通称「巡礼街道」と称される「信仰の道」でもあるが、後出の交通の箇所で解説したい。
村落については、楕円の線描まで表示し、天保郷帳に記載の行政村落(幕政村)は、全部そのままで記されている。行政村落が、いくつかの集落に分かれて存在するとき、郡絵図では「……之内」という表現で、その構成を明確にしている。また、「……村出屋敷」という表記で出郷・出在家を含めて表現するという、二つの事例がみられる。前者については、喜志村では、川面(かわづら)・大深(おおぶけ)・木戸山・桜井の四集落と、さらに、下水分宮の所在地たる宮、その北の集落たる平と合計し六集落で、喜志村という行政村を構成する。市域の南部では、佐備村の上・中・下の三集落と、出郷の中山があり、いずれも「佐備村之内」とされている。龍泉村は岸之本・草野の二出在家があり、「竜泉村之内」とされ、甘南備村も「蒲」の出在家があり、同じく「甘南備村之内」と表記されている。佐備川の流域の近世村落の構成が、類似したものをもっていると伝える。後者の事例は、市域ではないが、同じ郡絵図に「山城村出屋舗」「寛弘寺村出屋舗」「碓井村出屋舗」などと、その具体例がみられる。ほかに、神社・寺院については、市域では、下水分宮や龍泉寺などが記載され、中世の山城も金胎寺城跡とそれぞれ社殿・本堂などを鳥瞰図風に立体的に描いており、下水分宮は東高野街道に沿う鳥居を表示し、興味深い。郡全体としてもさらに多くの神社・寺院をとりあげ、中世の山城跡も金剛山地に多く記載していることは、郡絵図の実際の示すところである。
錦部郡に所属する市域の村落につき、錦部郡絵図からながめてみよう。石川郡に南続きの地域であるので、羽曳野丘陵につづく山地と、別に和泉との国境の河泉丘陵などが描かれ、河川は石川の上流のほか、狭山池に流入する天野川などの記入がある。自然地形などにはあまりふれず、主として、村落を中心にして付近の描写されている社寺・古跡につきとりあげてみたい。
石川の右岸には錦部郡の板持村が記され、彼方村とその出郷たる滝谷村が記載されている。
いうまでもなく、真言宗智山派の滝谷不動明王寺の所在地である。しかし、「出屋舗」とか「……村之内」という呼称はなく、独立村落として描いている。つづいて伏見堂・横山・嬉と村高の少ない村落がつづき、いずれも道で結ばれている。金胎寺古城も記載されている。石川の左岸をみると、向田村があり、近辺に甲田村がみえ、錦織神社の所在地であり、それを示す鳥居が描かれている。享保一七年(一七三二)西代藩本多忠統が伊勢神戸への転封に際し、伊勢神戸藩と幕領とに分かれた。幕末期と考えられる「河内国高付帳」では、神戸藩領を向田村、幕府領を甲田村と記載がある。宝永二年(一七〇五)の村明細帳では、北甲田・宮甲田を枝村とするが(『河内長野市史』六)、本郡絵図では向田・甲田村の双方をともに独立村落としている。さらに岩井村とよぶ新家村を記している。東高野街道に沿い錦郡村があり、その新田村として錦郡新田がある。錦郡村は狭山藩と旗本甲斐庄氏との入組支配地であるが、錦郡新田村は、その開発年代は不明である。享保二年(一七一七)には高二三二石余でこのとき五〇石余は狭山藩領、残り一八二石余は甲斐庄氏領となり、維新期まで変化はない(近世Ⅷの四)。廿山(つづやま)村は向田村から狭山新宿への街道上にある村落で近世前半期は狭山藩・旗本水野領のほか、山年貢分六石余が近江膳所藩領でつづいて伊勢神戸藩領となった。その出在家が五軒家で、「廿山村ノ内五軒家」と記されている。加太新田は、廿山村の芝地くミが平を木村主馬らが開発した新田で、享保五年、高三二六石余のうち狭山藩領二三石余、水野領三〇二石余であった(近世Ⅷの六)。「天保郷帳」では水野領のみを高三二一石余として、「廿山村枝郷」と記載するが、郡絵図では、独立の村落である。伏山新田は「甲田村枝郷」と記載されるが、開発年代は不明である。高一二六石余と小高の村落で、最初は近江膳所藩領であり、西代藩成立とともに西代藩領、享保一七年から伊勢神戸藩領となった(『河内長野市史』六)。
以上、錦部郡の内市域の村落につき、その歴史にもふれながら、ながめてきた。新田村の場合、来歴や開発の年代の不明さがあり、本村との関係で「……之内」「枝郷」などと表記もさまざまで、複雑な関係をものがたる。いずれにせよ、石川・錦部両郡の郡絵図は村落の具体的な諸相の、興味ある事実を示すものであろう。