幕領は御料所ともよばれ、徳川幕府の直轄支配地であった。市域を含む石川郡には幕領が多く、既述したように、明暦二年(一六五六)京都所司代牧野佐渡守親成の所領が石川郡にできるまで、石川郡四八カ村のうち数カ村を除いては、幕領であった(表20)。牧野領の時代を経て淀藩諸藩主の領地となることが多かったが、下館藩石川氏や旗本領の村々を除き、一八世紀中ごろから、前述したように、幕領代官支配の時期と、譜代大名が大坂城代・京都所司代・老中などの役職についたとき、その任期中の役知として与えられる時期と、交互することが多くなった。これら役職大名領は、大名領がその職を離れるとほかに移され、その村は幕領に復し、また後には役職大名領になるというように、幕領と役職大名領とが一体の関係にあったといえる。市域内では、たとえば、富田林村・毛人谷村・喜志村・山中田村・北別井村・南別井村などがその事例である。
いま、市域の村々を近世中・後期に支配した代官のうち、富田林村・毛人谷村・喜志村につき、代官名が判明するのは表21の通りである。これらのうち、天保期以降、慶応年間までの各代官に関し、『県令集覧』などによりながら、具体的な事項のいくらかを記しておきたい。
代官 | 期間 | |
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富田林村 | 角倉与一 | 延享3・ |
上倉彦右衛門 | 延享3~寛延元 | |
萩原藤七郎 | 寛延2~3 | |
石原清左衛門 | 宝暦元~5 | |
萩原藤七郎 | 宝暦9~10 | |
角倉与一 | 宝暦10・2~11・7 | |
飯塚伊兵衛 | 宝暦11・8~13・7 | |
角倉与一 | 宝暦13・8~安永7・4 | |
飯塚伊兵衛 | 安永3・正~11・12 | |
川尻甚五郎 | 安永12・正~12・12 | |
篠山十兵衛 | 享和元~文化6・6 | |
大岡久之丞・同忠兵衛 | 文化6・7~13・7 | |
辻甚太郎当分預り | 文化13・8~13・11 | |
石原庄三郎・同清左衛門 | 文化13・12~天保14・7 | |
都筑金三郎 | 天保14・8~弘化4・7 | |
設楽八三郎 | 弘化4・8~嘉永6・7 | |
小堀勝太郎 | 嘉永6・8~安政2・3 | |
多羅尾久右衛門・民部 | 安政2・3~4・7 | |
石原清一郎 | 安政4・7~文久3・6 | |
多羅尾民部・同主税 | 文久3・7~慶応3・4 | |
内海多次郎 | 慶応3・4~4・5 | |
毛人谷村 | 角倉与一 | 延享3 |
上倉彦右衛門 | 延享3~寛延元 | |
萩原藤七郎 | 寛延2~3 | |
石原清左衛門 | 宝暦元~5 | |
萩原藤七郎 | 宝暦9~10 | |
角倉与一 | 宝暦10~寛政2・7 | |
小堀縫殿・内藤重三郎 | 寛政2・7~・11 | |
鈴木新吉 | 寛政2・11~6 | |
池田仙九郎 | 寛政7~享和2 | |
拓植又左衛門 | 享和3 | |
木村因蔵 | 文化元 | |
重田又兵衛 | 文化2~12 | |
塩谷大四郎預り | 文化13・2~11 | |
石原清左衛門 | 文化13・12~文政10・11 | |
池田岩之丞 | 天保9・4~11・5 | |
石原清左衛門預り | 天保11・6~14・8 | |
都筑金三郎 | 天保14・8~ | |
喜志村 | 角倉与一 | 延享3~安永7 |
木村宗右衛門 | 寛政2~11 | |
河尻甚五郎預り | 寛政11~12 | |
篠山十兵衛 | 寛政12~文化6 | |
大岡久之丞 | 文化6~13 | |
石原庄三郎 | 文化13~文政10 | |
池田岩之丞預り | 天保8~11 | |
石原清左衛門預り | 天保11~14 | |
都筑金三郎 | 天保14~弘化4 | |
設楽八三郎預り | 弘化4~嘉永6 | |
小堀勝太郎預り | 嘉永6~安政2 | |
多羅尾久左衛門預り | 安政2~4 | |
石原清一郎 | 安政4~文久3 | |
多羅尾久左衛門預り | 文久3~慶応3 | |
内海多次郎 | 慶応3~ |
代官池田岩之丞は天保一〇年(一八三九)ごろは大坂谷町に役宅があり、のち、天保一四年駿府紺屋町にその役宅を移した。一五〇俵の扶持高をうけ摂・河・播三カ国七万九四一七石の幕領を支配した。代官設楽(しだら)八三郎は、嘉永元~四年(一八四八~五一)間ごろ大坂鈴木町に役宅をもつ代官で、知行は一五〇俵の扶持高をうけ、摂・河・泉の幕領を支配した。代官内海多次郎も、慶応二年(一八六六)ごろ大坂鈴木町に役宅をもち、八〇俵五人扶持を与えられ、摂・河・泉三国の幕領を管轄支配した。以上の代官に対して、代官小堀勝太郎は、嘉永七年、京二条に役宅住居をもつ京都系代官で、六〇〇石の知行を与えられ、山城・河内・丹波の三カ国の幕領を支配し管轄した。天保一〇年には知行のほか、役料一〇〇〇俵を給与され、支配管轄の幕領は、山城・河内・摂津・和泉・丹波・播磨の六カ国、計九万六四七〇石と拡大した。のち、安政五年には、役宅は京千本へ移り、知行高と役料は同様であったが、支配管轄する幕領は、山城・河内・摂津・丹波の諸国になった。ほかに、多羅尾久右衛門があり、安政年間ごろ、近江信楽(しがらき)にその役宅があり、出張陣屋を東海道四日市にもち、一五〇〇石の知行高であった。近江・山城・河内・伊勢の幕領が、その管轄支配の国々であった。多羅尾氏は先代から近江信楽に居住する在地系の代官であった。慶応二年には多羅尾主税であり、知行高も同じ一五〇〇石で近江・山城・河内・伊勢の幕領の支配管轄に当たった。同じ近江系の代官として、都筑金三郎があげられる。嘉永元年では近江大津にその役宅をもち、大津町奉行と御蔵奉行とを兼任していた。一〇〇俵の知行のほか役料として三〇〇俵を支給され、大和・近江・河内・丹波の幕領を支配した。なお、近世後期、大津の代官たる石原清左衛門の子孫である石原清一郎が嘉永四年(一八五一)、近江大津に役屋をおき、大津代官のほか、大津町奉行・蔵奉行を兼任した。その管轄支配は、大和・近江・丹波の諸国の幕領であったが、安政四年(一八五七)から文久三年(一八六三)にかけ、二〇〇俵の扶持高をもち、大和・近江・河内の諸国の幕領を支配した(村上直『江戸幕府代官史料』)。
以上のように市域を支配した代官は、地元大坂系のほか、京都系、近江系など、さまざまな代官がみられる。しかも、天保期以降の支配代官のうち、小堀(京都)、石原(大津)、多羅尾(信楽)のように、一定地に居住する世襲代官がみられるのが注目される。