小出氏は豊臣系の大名である。小出秀政は豊臣秀吉の信任が極めて厚く、大名に取り立てられ、文禄三年(一五九四)和泉岸和田城に入り、一万石を領した。翌四年、和泉大鳥郡・日根郡の村々を加えられ計三万石の大名となった。秀政の四男たる三尹(みつまさ)は、次兄秀家の養嗣子となったが、秀家は関ケ原合戦に東軍に味方し、その戦功により徳川氏から河内国錦部郡で一〇〇〇石を加増され、旧領とあわせ二〇〇〇石を領有し、父と兄の一族もゆるされることになった。秀家の死後は三尹が、遺領を継いだ。他方、岸和田藩主であった小出秀政の死後は、但馬出石藩主であった吉政が岸和田に転封され、出石藩は吉政の子である吉英(よしふさ)がついだ。処で、三尹は吉英の領地から一万石を分知され、陶器藩が成立した。和泉大鳥郡陶器に陣屋がおかれたのは、そのころであろう(『堺市史』続編一)。
陶器藩の領地は、摂・河・泉・但の四カ国にまたがり、河内国錦部郡・摂津西成郡・和泉大鳥郡のほかに、但馬気多(けた)・美含(みくに)両郡にまたがり、極端な分散知行の形態をとっている。表23の示すとおりで、錦部郡では野村(現河内長野市)のほか、板持村・横山村があり、この二カ村が市域の村々である。なお、陶器藩の成立に際し、旧領二〇〇〇石は収公されている。
国 | 郡 | 村名 | 村高計 |
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石 | |||
和泉 | 大鳥 | 北村 | 2931.79 |
深坂〃 | |||
辻之〃 | |||
上之〃 | |||
田薗〃 | |||
高蔵寺〃 | |||
河内 | 錦部 | 板持村 | 1021.1 |
上原〃 | |||
横山〃 | |||
摂津 | 西成 | 山口村 | 1048.2 |
西〃 | |||
但馬 | 気多 | 10カ村 | 1383.627 |
(村名略) | |||
美含 | 28カ村 | 3616.373 | |
(村名略) | |||
合計 | 39カ村 | 10000.09 |
注)寛文4年『寛文朱印留』(上)による。上原・惣作・野の三カ村は一括し上原村とした。
陶器藩は三尹のあと、有棟(ありむね)・有重(ありしげ)・重興(しげおき)と四代にわたってつづいた。藩の陣屋は大鳥郡の陶器北村(現堺市)にあり、西高野街道にも近く景勝の土地を占め、善美をこらした庭園もあり、付近の風物が林羅山文集に「陶器十景」として読まれているという(『堺市史』続編一)。なお、陶器藩は有重が就封したころは、土地がよく農産物や海産物などの多くの物産にめぐまれ、豊かで「物事自由叶フ」といわれていたが、藩主有重は文武とも学ばず、短気で怒り易く、家中や領民への仕置きに厳しい反面、哀れみの心にかけ、ぜいたくの限りを尽くしたと伝えている(『土芥寇讎記』)。つぎの重興は元禄九年(一六九六)に死亡するが、死に際して弟の重昌を養子にしようと幕府に願ったが許されず、死去したので陶器藩は封地を没収され、廃藩となった。その領地は幕府代官小野惣左衛門が支配するところとなる。