和泉陶器藩小出氏

475 ~ 476

小出氏は豊臣系の大名である。小出秀政は豊臣秀吉の信任が極めて厚く、大名に取り立てられ、文禄三年(一五九四)和泉岸和田城に入り、一万石を領した。翌四年、和泉大鳥郡・日根郡の村々を加えられ計三万石の大名となった。秀政の四男たる三尹(みつまさ)は、次兄秀家の養嗣子となったが、秀家は関ケ原合戦に東軍に味方し、その戦功により徳川氏から河内国錦部郡で一〇〇〇石を加増され、旧領とあわせ二〇〇〇石を領有し、父と兄の一族もゆるされることになった。秀家の死後は三尹が、遺領を継いだ。他方、岸和田藩主であった小出秀政の死後は、但馬出石藩主であった吉政が岸和田に転封され、出石藩は吉政の子である吉英(よしふさ)がついだ。処で、三尹は吉英の領地から一万石を分知され、陶器藩が成立した。和泉大鳥郡陶器に陣屋がおかれたのは、そのころであろう(『堺市史』続編一)。

 陶器藩の領地は、摂・河・泉・但の四カ国にまたがり、河内国錦部郡・摂津西成郡・和泉大鳥郡のほかに、但馬気多(けた)・美含(みくに)両郡にまたがり、極端な分散知行の形態をとっている。表23の示すとおりで、錦部郡では野村(現河内長野市)のほか、板持村・横山村があり、この二カ村が市域の村々である。なお、陶器藩の成立に際し、旧領二〇〇〇石は収公されている。

表23 陶器藩小出氏領地〔寛文4年(1664)〕
村名 村高計
和泉 大鳥 北村 2931.79
深坂〃
辻之〃
上之〃
田薗〃
高蔵寺〃
河内 錦部 板持村 1021.1
上原〃
横山〃
摂津 西成 山口村 1048.2
西〃
但馬 気多 10カ村 1383.627
(村名略)
美含 28カ村 3616.373
(村名略)
合計 39カ村 10000.09

注)寛文4年『寛文朱印留』(上)による。上原・惣作・野の三カ村は一括し上原村とした。

 陶器藩は三尹のあと、有棟(ありむね)・有重(ありしげ)・重興(しげおき)と四代にわたってつづいた。藩の陣屋は大鳥郡の陶器北村(現堺市)にあり、西高野街道にも近く景勝の土地を占め、善美をこらした庭園もあり、付近の風物が林羅山文集に「陶器十景」として読まれているという(『堺市史』続編一)。なお、陶器藩は有重が就封したころは、土地がよく農産物や海産物などの多くの物産にめぐまれ、豊かで「物事自由叶フ」といわれていたが、藩主有重は文武とも学ばず、短気で怒り易く、家中や領民への仕置きに厳しい反面、哀れみの心にかけ、ぜいたくの限りを尽くしたと伝えている(『土芥寇讎記』)。つぎの重興は元禄九年(一六九六)に死亡するが、死に際して弟の重昌を養子にしようと幕府に願ったが許されず、死去したので陶器藩は封地を没収され、廃藩となった。その領地は幕府代官小野惣左衛門が支配するところとなる。

写真148 陶器藩小出家墓地(堺市宝積院)