旗本小出氏

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陶器藩小出氏の絶家後まもなく、宝永二年(一七〇五)小出有仍(ありより)が旧小出家領を中心として、在地旗本小出家として復活した。有仍は旧陶器藩主小出有棟の四男であり、別家尹明(まさあきら)の養子として相続、尹明は三尹の四男で有棟の弟に当たり、陶器藩小出氏の系譜として由緒正しい家柄であった。有仍は宝永二年には五〇〇〇石の旗本として復帰した。その領地は和泉大鳥郡一一カ村と河内錦部郡三カ村であり、市域では、板持・横山の二カ村で、かつての陶器藩の旧領であった(表24)。

表24 旗本小出氏領地〔文政4年(1821)〕
村名 村高計
和泉 大鳥 北村 616.299
上之〃 323.294
辻之〃 512.5
田薗〃 336.034
深坂〃 555.781
土佐屋新田 52.617
高蔵寺村 434.406
岩室〃 61.412
福田〃 826.845
踞尾〃 311.818
下石津〃 159.742
河内 錦部 板持村 749.063
横山〃 61.603
野〃 209.344
合計 5213.758

注)文政4年9月「小出領村々和泉・河内村々明細帳」(『堺市史』続編4)による。

 有仍のあとは、尹従(ただより)が継ぎ、寄合から小普請組支配へと転じた。以後の旗本小出氏は、有相(ありすけ)・有福・有度(のり)・有義・有輝・有常とつづき、領地五〇〇〇石を相続した。文政四年(一八二一)一二月、大鳥郡田園村琴野で約一五〇〇坪ほどの土地を中心に、あらたに陣屋を建設し、同六年七月完成した。全体を土塁で囲み、藩士や足軽などの家中屋敷が近くにあったという。領内の農民支配は、天明年間ごろから在地の豪農児山家が担当し、旗本財政にも深く関与した(『堺市史』続編一)。かくして、泉河にまたがる五〇〇〇石の領地を、在地での陣屋支配で統治しながら、明治初年におよんだのである。