甲斐庄氏は、一般には、橘諸兄の系統をひき、楠木正成を祖とするとされている。しかし、楠木氏と甲斐庄氏との関係は、史料的にあとづけられていない。『新訂寛政譜』によると甲斐庄氏は楠木正成の子正儀(まさのり)、その子正勝から出自したとされる。兵右衛門正治が初代で、河内守ともいい、遠江国浜松で家康に仕え関東で釆地三〇〇石を賜わり、慶長四年(一五九九)八月に死没した。その子は喜右衛門正房で家康に仕え、関東で父の遺領とあわせて六〇〇石の所領をもった。関ケ原合戦や大坂冬・夏両度の陣に参加し戦功があったので、関東の所領六〇〇石に代わり、河内国錦部郡で二〇〇〇石余を賜わり、四天王寺の造営奉行を勤め、河内錦部郡で一万三〇〇〇石の幕領を預かった。彼はのちにこれを返却し、寛永七年(一六三〇)七月に死没した。
ところが、『寛永諸家系図伝』などでは楠木正成からの系譜は不明とし、兵右衛門正治と、喜右衛門正房の名前が見え、さらに正治の父として長治をあげている。元禄五年(一六九二)一〇月一三日の「烏帽子形八幡宮伝記写」によると、「甲斐庄喜(兵)右衛門慶長五年甲(庚)子八月廿二日一松宗祝居士正保寺」とあり、正治の名前はない。大坂冬の陣以前に北国へ知行替えになり、大坂落城後、河内領を賜わったともいう。また、文化一〇年(一八一三)二月一五日づけの、錦部郡上田村の「逆修講由来聞記」には、甲斐庄氏の歴代の名前とその法名が記されている。それによると、初代は、
一甲斐庄兵右衛門尉[橘正保(挿入)]様 慶長五年甲(庚)子八月廿二日 一松宗祝居士
一甲斐庄喜右衛門[氏正房(挿入)]様 寛永七年庚午七月廿三日 喜山宗心居士
(下略)
と見えている(『河内長野市史』七)。正治という名前はなく正保となっている。死没の生年月日は、月日は同一であるが年数は一カ年早い。つぎの正房も喜右衛門とあり、死没年月日は一致している。今後は、このような関係史料の相互間の相違についての考証や再検討を加えながら、近世初期の甲斐庄氏について、その実像を構築する必要があろう。
甲斐庄氏は在地の名族として、現地のさまざまの訴論を解決すべき立場にあったようである。正房は、元和五年(一六一九)六月、天野山と下里村とが下里村池普請につき争論が発生したので、双方の主張をよく聞届けている。翌年四月にも、両者の間で山論があり、これは当時の京都所司代板倉周防守重宗や、河内国国奉行小堀遠江守政一に訴えて、すでに解決ずみの一件でもあったが、正房は下里村の主張をききわけ、天野山惣中へ申し渡し、解決の方向に努力している(『河内長野市史』六)。
つぎの喜右衛門正述は、目付代となり、正保元年(一六四四)遠江国掛川城や駿河国田中城のそれぞれの引渡しに立会い、江戸城の御堀浚普請を奉行し、慶安二年(一六四九)三月に三河の鳳来寺の造営に関係している。承応元年(一六五二)正月、長崎奉行に就任した。その後継者は飛騨守正親である。はじめ喜右衛門といい、万治三年(一六六〇)一二月に相続した。寛文七年(一六六七)閏二月、五畿内などの巡見使を命ぜられ、同年一二月、勘定頭に就任し、同時に、武蔵国都筑(つづき)、相模国大住の両郡で、新領として一三〇〇石の所領を下付された。天和二年(一六八二)四月、上野国山田郡のうちで一〇〇〇石を加増され、すべて約四〇〇〇石を知行した。旗本として、関東・畿内の双方でその所領地を構成することになったのである。文政一三年(一八三〇)当時の所領の一覧は表25のとおりである。河内錦部郡五カ村と、関東領五カ村とで合計四四一〇・八五五石に達している。市域では、錦郡村と錦郡新田の二カ村がその領地であった。なお、弟の三郎右衛門正奥は万治三年一二月、河内国錦部郡内で三〇〇石のほか、八上郡花田村にも知行地を給付され、上野国にも五〇〇石を加えられたというが、詳細は不明である(『新訂寛政譜』)。
国・郡 | 村名 | 村高 | |
---|---|---|---|
上方領 | 河内 | 錦郡村 | 993.507 |
錦部郡 | 〃新田 | 178.54 | |
喜多村 | 103.062 | ||
上田村 | 181.536 | ||
高向村 | 954.08 | ||
小計(A) | (2410.725) | ||
2410.675 | |||
関東領 | 武蔵・都筑 | 市カ尾村 | 443.201 |
相模・大住 | 石田村 | 556.979 | |
上野・山田 | 矢揚村 | 408.359 | |
〃 | 高津戸村 | 288.041 | |
〃 | 小平村 | 303.6 | |
小計(B) | 2000.18 | ||
合計(A+B) | (4410.905) | ||
4410.855 |
注)大松家文書「甲斐鐐之助様知行高并文政十三年五カ村納辻」による。
つぎの喜右衛門正永は元禄四年(一六九一)七月、父の遺領を継承し、目付に就任し、日光山とその道中を検視し、御普請奉行に進んだという。そのあとは、喜右衛門正恒・喜三郎正寿(まさとし)・兵部正堅(まさかた)・兵庫助正昉(くらのすけまさあき)・庄五郎正憲・兵庫助正道・喜右衛門正博・帯刀正光などと相つぎ、明治初年に及んだ。