近世後半期を中心として、甲斐庄家の財政状況と、河内五カ村との関わり合いを示す一件につき、若干、記しておきたい。
天保六年(一八三五)一一月一一日に、高嶋紋左衛門と春木富右衛門の両名から、江戸表役所へ上申のうえ、取り極めた箇条書きがあり、河内領五カ村庄屋中に差し出された。その内容はつぎのとおりである。
(1) 来る天保七年二月まで、河内五カ村の都合のよい場所に陣屋を建設し、そこへ移るべきであるという。これは、最近、とくに窮乏化のはげしい領主財政の再建と、知行の村々の立直りの契機としたいという。その結果は、村方から堺の蔵屋敷の諸入用などが、全部節減できるとしている。
(2) 来年二月から村内の有力者らが、年貢など、諸勘定のとき立ち会い、年番庄屋も臨席して、諸経費を分担してほしい。
(3) 陣屋詰として一人が在勤し、その上御用人元締の者が一人ずつ、毎年交代して勤務する。彼らは九月下旬に江戸を出発し、一一月下旬に江戸に帰るが、ともに、現地で年貢勘定などの実務に立ち会うこと。
(4) 江戸表役所では、差し当たりの金銭のやりくりすら不可能で、家中たちへの切米、領主の手元で当座必要の金子、方々での借銀の利子支払いなどにあてるために、金三〇〇両を至急持参してほしい。
(5) 前書した蔵屋敷の廃止や、それに伴う余剰の金子が、来年から、諸事簡略節減のため残金として生じるので、それらを抵当にして、金一〇〇〇両ほど、工面(くめん)融通して村役人が江戸邸まで持参してほしい。
(6) とにかく、この三〇〇両は、現在の火急な領主財政に際会して、来春までの非常事態をのりきるための、工面してほしい金子である。今後は、仕法改革のための帳簿を作成し、領主からの下知書として、正月中に再度上京の上、前書どおりの改革を実行したいというのである(錦郡大松家文書)。
その結果は、村方からの請書が出されたか否かは明らかではないが、恐らく、村方一同の困惑・動揺が大きかったと思われる。
また、年未詳であるが、一二月五日付けの書状がある。江戸表役所から五カ村庄屋年寄中にあてられている。それは、去る一一月二五日、領主甲斐庄家が、西御番所御番に就任することになった。本年は諸国国々での凶作が多いので、御番勤務の諸領主が役儀を免ぜられることがあり、当領主も来る一〇月まで該当のはずであったが、就任できる人が少ないため、どうしても、役職に就くことになった。差し当たりの入用金として一〇〇両を持参してほしい。諸経費が相重なり村方の困窮ぶりも理解するが、とにかく、火急であるから、村方では和泉国大鳥郡深井中村の銀主勘助にでも交渉して、ぜひ、調達してほしいというのである(同上)。村方が借財しても、領主の必要とする金子は差し出すべきであるとするもので、前の一件同様に、村方の困惑ぶりは想像できよう。
なお、村方の借銀返済についての、文政七年(一八二四)一二月二六日付けの「覚書」がある。それは、深井中村の銀主の勘助が旗本甲斐庄家の借銀をめぐり、村方が借銀の返済を滞納したので、堺奉行へ訴えたが、拙者(浅香大内蔵)が取り噯かって、和談下済にしたというのであり、甲斐庄家の役人にあてられている(同上)。借銀に対する村方の、銀主への返済もできず、銀主から奉行所への訴訟にもちこまれ、狼狽・困惑する領主と村方のようすが窺われるのである。
以上のように、近世後半期には、幕府をはじめ諸大名・旗本を問わず、封建領主階級が深刻な財政難に直面し、旗本のような小領主のときは、すべて知行村方の経済に転稼されることが多く、借銀が村方を圧迫することになり、ひいては、領主支配を動揺させる結果ともなったことと思われる。甲斐庄家の場合も、断片的ではあるが、同様の傾向が窺われるのである。