市域の村落を支配した旗本の一人に、水野氏がある。清和源氏の系統をひくとされている水野氏は、水野河内守守信が徳川家康に仕えて慶長五年(一六〇〇)会津の上杉景勝の討伐に従い、その後、三五〇〇石の所領が与えられた。元和五年(一六一九)二月、長崎奉行から大坂西町奉行に就任したとされる(『新訂寛政譜』)。これには異説があり、その時は、松平忠明が大坂在城のときで、大坂はその領地であるので 大坂町奉行が任じられるはずはないとされる。しかし、水野が一時的に大坂にあり、同年七月の忠明の大和郡山城への国替の前後、転封に伴う人馬徴発をする一時的な国目付的機能を果たしたものであったと考えられるという(中部よし子「近世初期の幕府の大阪新職考」(『大阪の歴史』16))。
水野守信は、また、島田直時の寛永五年(一六二八)急死に伴い、寛永六年二月から、同九年一二月まで堺奉行を兼任した。そして、寛永一一年には采地として一五〇〇石の増封があったとされる。その子の半左衛門守政は、定火消・御持筒・百人組頭・大目付などと幕府の役職を歴任し、天和二年(一六八二)四月に、七〇〇石の地を加増された。その結果水野家領は、大和国十市、河内国交野・丹南・錦部、近江国野洲・栗太・蒲生・甲賀の八郡にまたがり、すべて五七〇〇石となったという(『新訂寛政譜』)。
しかし、一七世紀前半の正保~慶安年間から、一七世紀後半の天和年間にかけては、河内国の所領は、半左衛門守政が、河内国錦部郡の廿山村五〇〇石を領有していたにすぎず、丹南郡や交野郡に支配領地があったとする確証はない(「河内国正保郷帳写」、「河内国中支配所料物高輯帳」、『枚方市史』三)。したがって市域内でのこの時期の所領は廿山村のみで、狭山藩北条氏領三八・三五石と入り組んで領有していた。河内国錦部郡のほか、丹南・交野両郡で領地をもったのは宝永二年(一七〇五)といわれ、丹南郡で岩室村・西野新田・田中新田・山本新田・草尾新田と、交野郡で坂・上嶋両村が水野家の支配に入ったのである。その後、享保五年(一七二〇)加太新田の開発がなり高入されたとき、加太新田のうち三二一・二七八六石を領有し、狭山藩北条遠江守氏朝の所領二五・五六七七石と入組支配で、加太新田を支配したのである(奈良県桜井市高瀬康生家文書)。
すでに水野氏は、大和国十市郡で寛永年間から荻田村のほか五カ村を領有していたが、近江国でも万治年間から所領をもち、元禄一一年の「地方直し」を経て、さらに新町村以下一〇カ村の所領を支配した。かくして、大和・近江・河内の三カ国にまたがり、その所領を確定したのである(表26)。近世前半の水野家の動向や、その所領の変遷につき、再検討すべき問題を残しているといえる。なお、寛政年間に、河内国交野郡坂村(現枚方市)に東西・南北とも二〇間の敷地に陣屋をもち、この三カ国の支配に当たった(『枚方市史』三)。また、新田開発の結果、安永三年(一七七四)には、実高六三四五石余となったのである。
村名 | 村高 | 備考 | ||
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石 | 石 | 石 | ||
大和 | 荻田 | 48.59 | 1005.9026 A(寛永5年拝領) | |
西宮 | 151.284 | |||
横沼 | 135.0 | |||
浅古 | 527.073 | |||
北山 | 143.9556 | |||
河内 | 岩室 | 108.09 | 1478.953(宝永2年拝領) | |
西野新田 | 122.013 | |||
田中新田 | 223.886 | |||
山本新田 | 71.811 | |||
草尾新田 | 503.289 | |||
坂 | 371.444 | |||
上嶋 | 78.42 | |||
廿山 | 716.2875※ | ※新田74.6937 | 1156.089(享保5年開発) | |
加太新田 | 321.2786△ | △加太新田百姓方 | ||
新田43.8292 | 2635.042 B | |||
近江 | 金森 | 855.7 | 万治3年拝領 | 2704.999 C |
川平 | 19.518 | |||
長束 | 124.781 | |||
新町 | 500.000 | 元禄11年拝領 | ||
野 | 110.209 | |||
下駒月 | 207.413 | |||
音羽野 | 142.575 | |||
青土 | 216.477 | |||
上野 | 397.396 | 元禄13年拝領 | ||
草子 | 130.93 | |||
A+B+C | 6345.9436 |
注)「三ケ国大〆五ケ村委細帳写」「大和・河内・近江三ケ国御物成御勘定帳写」(奈良県桜井市高瀬康生家文書)による。