淀藩石川氏・松平氏

485 ~ 487

市域の村々を近世に支配した諸領主は、徳川代官・大名・旗本などとその種類は多くにわたり、しかもそれらの諸領主の所領が複雑に入り組み、年代によりさまざまに交替した。ここでは一七世紀の後半期以降について、市域に飛地をもった遠隔地譜代大名を中心に、それぞれの支配領主の系譜・経歴の大略と、支配した村落につき述べてみたい。

 淀藩石川氏は河内石川源氏の系統をひくといわれている。淀藩主石川主殿頭憲之は、寛永一一年(一六三四)、近江膳所藩主石川忠総の長子たる康勝の長男として生まれた。父の死去により嫡孫となり、慶安四年(一六五一)四月、祖父忠総の遺領を継ぎ、同時に、本多下総守俊次と交換に、近江膳所から、伊勢亀山へ転封になった。のち、寛文九年(一六六九)年二月、淀藩主永井尚征が丹後宮津に国替えになり、代わって、一万石加増され淀城(現京都市伏見区)に入部し六万石を領有した。その所領は、山城の淀城近辺のほか、河内国古市・石川・高安の諸郡、摂津国嶋下郡、近江国栗太・野洲・甲賀の三郡にまたがっていた。市域で領有した村々は、新家・喜志・中野・新堂・毛人谷・富田林・板持・山中田・北大友・南大友・北別井・南別井の諸村に及んでいた(表27)。

表27 淀藩石川氏領地
村名 村高 山年貢
河内 石川 新家 322.083
喜志 1801.89 4.25
中野 627.83 0.7
新堂 1701.23 3.22
毛人谷 674.857
銀 匁
富田林 93.198 2
板持 249.007 1.73
銀 匁
山中田 453.439 24
北大友 580.46
銀 匁
南大友 254.598 28.8
北別井 261.907
南別井 240.083
銀 匁
寛弘寺 347.816 12.5
神山 455.29 1.05
森屋 736.504 8.05
川野辺 156.708 1.05
芹生谷 214.738 1.576
大ケ塚 75.38
銀 匁
山城 477.19 3.0
灰賀(一須賀) 728.805 1.47
銀 匁
春日 701.124 285.6
銀 匁
山田 1413.438 420
銀 匁
太子 1607.602 8.9
古市 略(14カ村)
(総村高) 72.871
14843.13
784.8
高安 略(15カ村) (総村高)
4073.852
摂津 嶋下 略(19カ村) (総村高)
8583.496
山城 川西・山東・淀近辺 略(47カ村) (総村高)
20119.155
近江 栗太・野洲・甲賀 略(37カ村) (総村高)
14618.839
62238.392

注)「元禄年間淀下津町古記録之写」(『日本都市生活史料集成』4城下町Ⅱ)より作成。

 憲之は、また、延宝五年(一六七七)からの畿内・西国筋の幕領の延宝検地に際しては、山城国内の幕領検地を担当した。元禄八年(一六九五)四月、大久保忠朝の屋敷で将軍綱吉に論語を講述するなど、学問を好み儒学に明るい大名であった(『新訂寛政譜』)。憲之のあとは、義孝・総慶と続いたが、総慶のとき正徳元年(一七一一)二月、備中松山へ転封になり、淀藩石川氏の支配は終った。

 石川総慶と入れかわりに、淀藩主として入部したのは、美濃加納藩松平(戸田)丹波守光煕(みつひろ)であった。淀藩主として石川氏をひきつぎ、山城国久世・綴喜(つづき)・紀伊・相楽の各郡と、河内国石川・古市・高安の各郡、摂津国島下郡、近江国野洲・栗太・甲賀の各郡にまたがり、計四カ国一一郡で約六万石で、市域内に領有した村落も変わらなかった。光煕の死後享保二年(一七一七)一一月に松平光慈(みつちか)が襲封したが、淀から志摩国鳥羽へ転封になった(『新訂寛政譜』)。