市域の村々を近世に支配した諸領主は、徳川代官・大名・旗本などとその種類は多くにわたり、しかもそれらの諸領主の所領が複雑に入り組み、年代によりさまざまに交替した。ここでは一七世紀の後半期以降について、市域に飛地をもった遠隔地譜代大名を中心に、それぞれの支配領主の系譜・経歴の大略と、支配した村落につき述べてみたい。
淀藩石川氏は河内石川源氏の系統をひくといわれている。淀藩主石川主殿頭憲之は、寛永一一年(一六三四)、近江膳所藩主石川忠総の長子たる康勝の長男として生まれた。父の死去により嫡孫となり、慶安四年(一六五一)四月、祖父忠総の遺領を継ぎ、同時に、本多下総守俊次と交換に、近江膳所から、伊勢亀山へ転封になった。のち、寛文九年(一六六九)年二月、淀藩主永井尚征が丹後宮津に国替えになり、代わって、一万石加増され淀城(現京都市伏見区)に入部し六万石を領有した。その所領は、山城の淀城近辺のほか、河内国古市・石川・高安の諸郡、摂津国嶋下郡、近江国栗太・野洲・甲賀の三郡にまたがっていた。市域で領有した村々は、新家・喜志・中野・新堂・毛人谷・富田林・板持・山中田・北大友・南大友・北別井・南別井の諸村に及んでいた(表27)。
国 | 郡 | 村名 | 村高 | 山年貢 |
---|---|---|---|---|
河内 | 石川 | 新家 | 322.083 | |
石 | ||||
喜志 | 1801.89 | 4.25 | ||
中野 | 627.83 | 0.7 | ||
新堂 | 1701.23 | 3.22 | ||
毛人谷 | 674.857 | |||
銀 匁 | ||||
富田林 | 93.198 | 2 | ||
石 | ||||
板持 | 249.007 | 1.73 | ||
銀 匁 | ||||
山中田 | 453.439 | 24 | ||
北大友 | 580.46 | |||
銀 匁 | ||||
南大友 | 254.598 | 28.8 | ||
北別井 | 261.907 | |||
南別井 | 240.083 | |||
銀 匁 | ||||
寛弘寺 | 347.816 | 12.5 | ||
石 | ||||
神山 | 455.29 | 1.05 | ||
森屋 | 736.504 | 8.05 | ||
川野辺 | 156.708 | 1.05 | ||
芹生谷 | 214.738 | 1.576 | ||
大ケ塚 | 75.38 | |||
銀 匁 | ||||
山城 | 477.19 | 3.0 | ||
灰賀(一須賀) | 728.805 | 1.47 | ||
銀 匁 | ||||
春日 | 701.124 | 285.6 | ||
銀 匁 | ||||
山田 | 1413.438 | 420 | ||
銀 匁 | ||||
太子 | 1607.602 | 8.9 | ||
古市 | 略(14カ村) | 石 | ||
(総村高) | 72.871 | |||
14843.13 | 匁 | |||
784.8 | ||||
高安 | 略(15カ村) | (総村高) | ||
4073.852 | ||||
摂津 | 嶋下 | 略(19カ村) | (総村高) | |
8583.496 | ||||
山城 | 川西・山東・淀近辺 | 略(47カ村) | (総村高) | |
20119.155 | ||||
近江 | 栗太・野洲・甲賀 | 略(37カ村) | (総村高) | |
14618.839 | ||||
62238.392 |
注)「元禄年間淀下津町古記録之写」(『日本都市生活史料集成』4城下町Ⅱ)より作成。
憲之は、また、延宝五年(一六七七)からの畿内・西国筋の幕領の延宝検地に際しては、山城国内の幕領検地を担当した。元禄八年(一六九五)四月、大久保忠朝の屋敷で将軍綱吉に論語を講述するなど、学問を好み儒学に明るい大名であった(『新訂寛政譜』)。憲之のあとは、義孝・総慶と続いたが、総慶のとき正徳元年(一七一一)二月、備中松山へ転封になり、淀藩石川氏の支配は終った。
石川総慶と入れかわりに、淀藩主として入部したのは、美濃加納藩松平(戸田)丹波守光煕(みつひろ)であった。淀藩主として石川氏をひきつぎ、山城国久世・綴喜(つづき)・紀伊・相楽の各郡と、河内国石川・古市・高安の各郡、摂津国島下郡、近江国野洲・栗太・甲賀の各郡にまたがり、計四カ国一一郡で約六万石で、市域内に領有した村落も変わらなかった。光煕の死後享保二年(一七一七)一一月に松平光慈(みつちか)が襲封したが、淀から志摩国鳥羽へ転封になった(『新訂寛政譜』)。