松平(戸田)氏と交替で市域の村々を支配したのは、大給(おぎゅう)松平氏である。大給松平氏は、その祖先が三河国加茂郡大給に住居していたので、その居住地の名をとり大給松平氏とよばれた。大給松平氏の松平乗邑(のりむら)は貞享三年(一六八六)肥前唐津藩松平乗春の長男に生まれ、元禄三年(一六九〇)六万石の所領をついだ。同四年二月、志摩国鳥羽へ転封になり、伊勢・三河・近江の三カ国に所領をもった。ついで宝永七年(一七一〇)伊勢国亀山に転封になり、伊勢国鈴鹿・河曲(かわの)・三重・多気(たけ)・飯野(いの)の五郡と、近江国蒲生郡に領地を与えられた。享保二年(一七一七)一一月山城国淀城に入部し、山城のほか摂・河・江の諸国で六万石を領有したので、石川氏時代よりの市域の所領は、そのまま、松平乗邑にひきつがれた(『新訂寛政譜』)。のち、享保七年六月には、初めて大坂城代の仮役を命ぜられ、翌八年四月には老中に就任し、同五月には山城国淀から下総国佐倉へ転封になった。この時の所領の変化は明らかでないが、それまでの淀藩時代の市域の村々の領有は、そのままで延享二年(一七四五)まで継続した(近世Ⅰの三・四、『紀要』四、平井家文書)。
周知のごとく松平乗邑は、享保改革の後半、中央政界で活躍した著名な人物である。彼はたしかに異例の昇進をなしとげ、幕閣の一員として、正式に政治につき発言を行いうる地位についた。吉宗将軍が閣老再編成のため、抜擢した能吏であったと思わせる(辻達也『享保改革の研究』)。しかし享保改革の前半期は、水野和泉守忠之が勝手掛老中として農政・財務を主担していたので、乗邑は、たとえば、享保一一年の吉宗の放鷹、同一三年の日光社参、同年家宣一七回法要、同一四年吉宗養女竹姫婚姻などの、諸行事や儀礼面を中心とする活動がみられるのみである。同一五年六月水野忠之の老中辞任に伴い、乗邑は老中首座として幕閣内にその勢力を伸ばしてきた。享保一七年の西国の蝗害による大飢饉(ききん)に際しては、若年寄本多忠統(ただむね)とともにその対応に当たり、その処置宜しきを得たとして賞与をうけた(『新訂寛政譜』)。その後、元文二年(一七三七)六月に勝手掛老中に任命され、幕閣内で権力者としての確固たる地位が認められた。元文~延享年間の享保改革の末期における、農政上での未曽有の高率年貢収奪が乗邑によって実施されたことは著名の事実である。
延享二年三月、乗邑の功労に対して下総でさらに一万石を加増され七万石となった。しかし、同年九月、吉宗が将軍職を退くと、これまでの栄華全盛の反動で、同年一〇月、老中更迭・出仕差し止めとなり、加増の一万石は没収され、西ノ丸上屋敷から即日退去を命ぜられた。残りの六万石は嗣子たる松平乗祐(のりすけ)が襲封したが、翌三年正月、出羽国山形に転封となった。出羽国村山郡などのほか、常陸・下総三国にその所領を移され、市域の松平領村々は、多くは角倉与一代官の預かり領となり、代官統治が復活した(『新訂寛政譜』)。
その後乗祐は明和元年(一七六四)六月、大坂城代に就任すると同時に、出羽国山形から三河国西尾へ転封になり、同二年九月、越前国南条・丹生・坂井三郡の所領のうち一万石を、河内国若江・渋川・石川三郡のうちに移された。石川郡の村々の内には、市域の山中田・南別井・北別井の三カ村の所領が含まれていた。同六年乗祐は大坂城で死去したので、松平乗完が同年一〇月にその遺領をついだ。翌七年二月、父乗祐の大坂城代在勤中の河内国の所領が、旧領たる越前国に戻り、市域の村々との関係はなくなった(『西尾市史』『河南町誌』三嶋家文書)。