徳川譜代大名たる井上河内守正経(まさつね)は、別名を利容(としもり)ともいった。享保一〇年、笠間城に生まれ、元文二年(一七三七)一一月に遺領を相続、延享四年三月、磐城平城へ転封となり、陸奥国菊多・磐城・磐前(いわまえ)・伊達の四郡に所領をもった。宝暦二年(一七五二)八月奏者番、同三年三月寺社奉行を兼ね、同六年五月大坂城代に就任し従四位下にのぼった。同時に所領は摂津国西成・島下、河内国渋川・丹北・古市・石川、播磨国加東・加西・赤穂・多哥・美嚢、近江国蒲生・野洲の四カ国一三郡に移された。井上氏はその所領を離れて大坂城に入ったので、領国が遠隔地であるとの理由で、大坂周辺の国々に所領を与えられたのであった。市域では、富田林・毛人谷・中野・新堂・新家の諸村が井上氏の所領となり、市域の村々との関係できた(近世Ⅰの三・四・平井家文書・『河南町誌』)。井上氏は宝暦八年一一月、大坂城代から京都所司代に昇進し侍従となったが、一二月、浜松城主となったので、すべての所領を遠江国浜松城近辺と、近江国浅井・坂田両郡のうちに与えられたので、市域の村々との関係は絶たれた(『新訂寛政譜』)。