常陸笠間藩牧野氏

490 ~ 497

常陸笠間藩牧野家の来歴につき略述したい。笠間牧野家はその祖先たる牧野儀(のり)成が、将軍綱吉の館林城主の時代に、五〇〇〇石の家老であった。その二男成貞は父の遺領二〇〇〇石の分知をうけ綱吉の家老となり、綱吉将軍のとき一万石の加増をうけ、計一万三〇〇〇石の大名となった。綱吉に重視され側用人となり二回の加増で、関東の関宿城主として都合五万三〇〇〇石を領有した。つぎの成春のとき七〇〇〇石の加増をうけ、宝永二年(一七〇五)、三河の吉田城主に転封となった。藩領は八万石に加増され、三河国吉田周辺の三郡(宝飯(ほい)・八名(やな)・渥美)のほか、三河と遠江国に所領があり、近江国高嶋・浅井・伊香の三郡にも所領があった。茂春の子成央(なか)は幼少のため、東海道の要衝の警備は無理として転封を命ぜられ、日向国臼杵・宮崎・児湯(こゆ)の各郡、豊後国大分・国東(くにさき)・速見の諸郡に移され、延岡城を本拠とし八万石の城主となった(常陸笠間藩牧野家文書(茨城県歴史館探訪)、『新訂寛政譜』)。

 成央のあとは、貞通が継いだ。享保一七年の畿内西国の蝗害により、領内に多数の餓死者が出たが、貞通は幕府より七〇〇〇両を借り、家中と領民に与えて諸事の倹約を厳しくし、救済につとめた。しかし、新領知の日向・豊後は風水害の多発する地域でもあったため、毎年のように、二万石から四万石の損毛が記されており、所領替えが藩側から強く望まれた(常陸笠間藩牧野家文書、『新訂寛政譜』)。貞通は享保一九年九月奏者番、同二〇年五月寺社奉行を兼ね、寛保二年(一七四二)六月京都所司代に就任した。そのため所領八万石のうち、三万石が、河内・近江・丹波・美濃四カ国の上方領に移され、所司代就任を機とし待望の上方の沃野に所領を得たのである。のち、延享四年(一七四七)三月、日向国延岡から常陸国笠間(茨城県笠間市)に国替えとなり、日向・豊後両国の五万石が、常陸国茨城・真壁両郡のうちへ移封されたが、上方領はそのままであった。寛延二年(一七四九)九月、貞通は死去し、貞長があとを継いだ。同年一二月、上方三万石は陸奥国磐前(いわさき)・田村・磐城(いわき)三郡のうちに移され、東国地域に所領を集中し、常陸笠間藩八万石の基礎がほぼ出来上ったとみてよい。

 牧野貞長は関東譜代大名として、藩主在任四三年のうち、三三年間は幕政に関与したのであった。この間、幕府における役職の方は、宝暦九年(一七五九)六月に奏者番、明和六年(一七六九)八月から寺社奉行に就任し、安永六年(一七七七)九月には大坂城代となり従四位下に昇任した。さらに、天明元年(一七八一)閏五月には京都所司代となり侍従となった。同四年五月には幕府老中に任ぜられ、同七年四月備後守となり、寛政二年(一七九〇)二月老中職を辞したが、まさに、譜代大名の典型的な立身出世コースを歩んだ一人でもあった。(常陸笠間藩牧野家文書、『新訂寛政譜』)。この間、役職就任に伴う上方関係の所領は、どのように変化したか、以下、具体的にみたい。

 安永六年九月の大坂城代就任にともない、同年一一月、陸奥国磐前・田村・磐城三郡の所領が、河内国丹南・丹北・石川・渋川・茨田、和泉国南・日根、播磨国神東・加東・加西・多可の諸郡に所替えとなった。河内・和泉という畿内の経済的最先進地域と、東播地区の加古川・市川地域の沃野を含んでいる。飛地領の旧領主は、京都・大津・大坂に所在した幕領代官たる角倉与一・小堀数馬・石原清左衛門・青木楠五郎・辻六郎左衛門といった代官たちである。牧野家の上方飛地領は、幕府直属代官の支配地を割き、構成されている(表28)。

表28 笠間藩上方領分布〔安永6年(1777)〕

(単位 石)

国名 郡名 村名 村高 旧領主
河内 丹南6カ村 野中 1,138.148 角倉与市
野中新田 1.848
伊賀 487.855
多治井 695.190
小平尾 516.568
阿弥 388.015
阿弥新田 0.438
739.046 石原清左衛門
小計 (3,967.108)
3,697,107
丹北7カ村 若林 213.741 角倉与市
太田 155.305
川辺 626.130
長原 1,388.026
木本※ 82.6737
更池※ 24.898 石原清左衛門
田井城 472.673
小計 2,913.4467
石川6カ村 富田林 98.939 角倉与市
寛弘寺※ 347.922
神山 456.114
森屋 737.034
大ケ塚 77.090
一須賀※ 197.4376
小計 1,914.5366
渋川3カ村 久宝寺 1,985.470 角倉与市
衣摺※ 145.8283
亀井※ 505.265
小計 2,636.5633
茨田11カ村 走谷 205.678 小堀数馬
池田川 555.017
池田中 404.443
池田下 451.511
田井 369.256
対馬江※ 251.446
下番 1,488.288
安田 270.513 辻六郎左衛門
平池 299.839
氷野 513.038
赤井 327.712
小計 (5,135.741)
5,135.743
合計 (16,568.3956)
16.563.3976
和泉 日根5カ村 樫井 570.476 小堀数馬
北野 371.6446
桑畑 185.367
西吉見 407.6037 青木楠五郎
兎田 568.9335 小堀数馬
小計 2,104.0268
南7カ村 吉井 489.782 青木楠五郎
中井 564.984
箕土路 484.0026
西大路 215.522
新在家※ 491.0765
池尻※ 320.3951
大町 400.4196
小計 2,966.1818
合計 5,070.2086
播磨 神東2カ村 北山田※ 87.949 辻六郎左衛門
南山田 639.472
小計 727.421
加東3カ村 東古瀬※ 390.8198 辻六郎左衛門
上鴨川 300.501
太郎太夫※ 316.396
小計 1,007.7168
加西17カ村 殿原 486.054 辻六郎左衛門
大内 320.749
鴨谷※ 168.732
佐谷 319.055
三国 485.127
田原※ 825.140
尾崎 85.742
東剣坂 742.948
戸田井 192.391
西長 249.370
同神田 0.212
中山 93.908
大柳 91.660
段下※ 160.013
中西 389.890
東横田 388.874
同新田 0.112
東南 169.144
南殿原 255.509
小計 (5,424.630)
5,191.630
多可5カ村 大伏 186.053 辻六郎左衛門
羽山 165.044
西安田※ 362.408
東安田 434.440
奥畑 291.678
小計 (1,439.623)
1,439.626
合計 (8,599.3908)
8,366.3938
総計 (30,237.995)
30,000.000

注)1 ※印は相給村落  2 ( )内は、計算し直した数値
  3 安永8年「河内和泉播磨国御領地反別帳」より作成。

 さらに、大坂城代就任のとき「於大坂高四万石之役高人数之積を以、相勤候様被 仰出之」(常陸笠間藩牧野家文書)とあるように、役知高として、三万石よりも四万石が込められていた。そこで翌七年一一月、さらに笠間城の城付領のうち、一万五〇〇〇石の所領を、大坂最寄(もより)で引換えすることになった。その結果は、河内石川郡で喜志村など、古市郡で誉田・古市両村とをあわせ五六〇〇石、播磨加古郡で二カ村一八八〇石、赤穂郡で一〇カ村五八三〇石、美作国大庭郡で八カ村三四二六石と、新しく上方飛地領の拡大をみた。ここでは役知としての知行地の対象が、摂河泉だけではなく、東播から西播地区へ、そして美作国といった中国方面まで拡大されたことがわかる(表29)。ところが、天明四年八月に「大坂最寄」所領中、河内国石川郡之内と、播磨国赤穂郡全部と、神東(じんとう)・加東・加西諸郡の一部、美作国大庭郡全部とが、常陸国茨城・河内・真壁三郡の旧領の村々に引き戻されたらしい(常陸笠間藩牧野家文書)。その後、天明八年三月の八万石知行目録写によると、上方領の村々は、河内国丹南・丹北・石川・渋川・茨田・古市の各郡で二万九四一石余、和泉国南郡のみで二一八五石余、播磨国神東・加東・加西・多可・加古の各郡で五五二四石余である。上方領三万石の領地に戻ったが、河内・和泉二国で約八〇%以上を占めている(表30)。以上のような所領配置は、寛政二年(一七九〇)二月、貞長が老中を退任するまでつづき、老中退任の結果は、上方領がすべて陸奥国の磐前・田村・磐城の三郡へと移り(「常陸笠間藩牧野家文書」『新訂寛政譜』)、上方西国領飛地とは一切関係がなくなるのである。

表29 笠間藩上方領分布〔安永7年(1778)〕

(単位 石)

国名 郡名 村名 村高 旧領主
河内 丹南6カ村 表28に同じ 表28に同じ
丹北7カ村 表28に同じ 表28に同じ
石川9カ村 富田林 表28に同じ
寛弘寺※
神山
森屋
大ケ塚
一須賀※
山田 1,420.574 角倉与市
喜志 1,826.694
山中田 454.412
小計 5,616.2166
渋川3カ村 表28に同じ 表28に同じ
茨田11カ村 表28に同じ 表28に同じ
古市2カ村 誉田 914.989 石原清左衛門
古市 1,124.7053
新田 0.904
小計 (2,040.5983)
2,040.6683
合計 (22,310.6739)
22,305.7459
和泉 日根5カ村 表28に同じ 表28に同じ
南7カ村 表28に同じ 表28に同じ
合計 5,070.2086
播磨 神東2カ村 表28に同じ 表28に同じ
加東3カ村 表28に同じ 表28に同じ
加西17カ村 表28に同じ 表28に同じ
多可5カ村 表28に同じ 表28に同じ
赤穂10カ村 赤松 473.349 青木楠五郎
苔縄 408.329
与井新 389.014
佐用谷 268.813
二柏野 113.753
240.199
小河 471.134
753.098
二木 324.040
同新田 0.065
牟札東 507.974
小計 (3,949.768)
3,949.968
加古2カ村 東二見 1,142.078 青木楠五郎
二子 738.628
小計 1,880.706
合計 (14,224.8598)
14,197.0678
美作 大庭8カ村 三崎河原 707.598 小林孫四郎
赤野 560.543
目木 870.653
新田 0.240
錨屋 157.408
久見 141.703
下湯原 271.658
樫木西谷 507.372
大庭※ 209.8027
合計 3,426.9777
総計 (45,032.720)
45,000.000

注)1 ※印は相給村落  2 ( )は、計算し直した数値
  3 安永8年「河内和泉播磨国御領地反別帳」より作成。

表30 笠間藩領知分布〔天明8年(1788)〕

(単位 石)

国名 郡名 村名 村数 村高
河内 丹南 野中、伊賀、多治井、小平尾、阿弥、岡 6 3967.108
丹北 若林、太田、川辺、長原、木本、更池、田井城 7 2913.4467
石川 富田林、寛弘寺、神山、森屋、大ケ塚、一須賀之内、山田之内、喜志 8 4251.6141
渋川 久宝寺、衣摺、亀井 3 2636.5633
茨田 走谷、池田川、池田中、池田下、田井、対馬江、下番、安田、平池、氷之、赤井 11 5131.743
古市 誉田、古市 2 2040.6683
和泉 吉井、箕土路、新在家、池尻、大町 5 2185.6758
播磨 神東 南山田 1 639.472
加東 太郎太夫 1 316.396
加西 大内、鴨谷、佐谷、田原、西長、大柳 6 1974.918
多可 大伏、羽山、西安田 6 713.905
加古 東二見、二子 2 1880.706
常陸 茨城 村名略 80 36922.4915
真壁 村名略 13 9812.5782
河内 村名略 4 6084.165

注)「牧野備後守貞長宛領知目録」写による。

 以上、笠間藩の上方飛地領は、貞長のとき、安永六年に大坂城代就任を機として三万石の知行高で設定され、一時には、四万五〇〇〇石と城付地の知行高より大きく、藩領全体の約五六%にも及んだが、老中退任の寛政二年で終止符をうち、その間、一二カ年存続した。役知領たる上方領は、城付地の一部を割き、同等の知行高で設定され、加増されるのではなく、役職退任とともに旧領に引き戻されるといった事例がとられている。