常陸笠間藩牧野家の来歴につき略述したい。笠間牧野家はその祖先たる牧野儀(のり)成が、将軍綱吉の館林城主の時代に、五〇〇〇石の家老であった。その二男成貞は父の遺領二〇〇〇石の分知をうけ綱吉の家老となり、綱吉将軍のとき一万石の加増をうけ、計一万三〇〇〇石の大名となった。綱吉に重視され側用人となり二回の加増で、関東の関宿城主として都合五万三〇〇〇石を領有した。つぎの成春のとき七〇〇〇石の加増をうけ、宝永二年(一七〇五)、三河の吉田城主に転封となった。藩領は八万石に加増され、三河国吉田周辺の三郡(宝飯(ほい)・八名(やな)・渥美)のほか、三河と遠江国に所領があり、近江国高嶋・浅井・伊香の三郡にも所領があった。茂春の子成央(なか)は幼少のため、東海道の要衝の警備は無理として転封を命ぜられ、日向国臼杵・宮崎・児湯(こゆ)の各郡、豊後国大分・国東(くにさき)・速見の諸郡に移され、延岡城を本拠とし八万石の城主となった(常陸笠間藩牧野家文書(茨城県歴史館探訪)、『新訂寛政譜』)。
成央のあとは、貞通が継いだ。享保一七年の畿内西国の蝗害により、領内に多数の餓死者が出たが、貞通は幕府より七〇〇〇両を借り、家中と領民に与えて諸事の倹約を厳しくし、救済につとめた。しかし、新領知の日向・豊後は風水害の多発する地域でもあったため、毎年のように、二万石から四万石の損毛が記されており、所領替えが藩側から強く望まれた(常陸笠間藩牧野家文書、『新訂寛政譜』)。貞通は享保一九年九月奏者番、同二〇年五月寺社奉行を兼ね、寛保二年(一七四二)六月京都所司代に就任した。そのため所領八万石のうち、三万石が、河内・近江・丹波・美濃四カ国の上方領に移され、所司代就任を機とし待望の上方の沃野に所領を得たのである。のち、延享四年(一七四七)三月、日向国延岡から常陸国笠間(茨城県笠間市)に国替えとなり、日向・豊後両国の五万石が、常陸国茨城・真壁両郡のうちへ移封されたが、上方領はそのままであった。寛延二年(一七四九)九月、貞通は死去し、貞長があとを継いだ。同年一二月、上方三万石は陸奥国磐前(いわさき)・田村・磐城(いわき)三郡のうちに移され、東国地域に所領を集中し、常陸笠間藩八万石の基礎がほぼ出来上ったとみてよい。
牧野貞長は関東譜代大名として、藩主在任四三年のうち、三三年間は幕政に関与したのであった。この間、幕府における役職の方は、宝暦九年(一七五九)六月に奏者番、明和六年(一七六九)八月から寺社奉行に就任し、安永六年(一七七七)九月には大坂城代となり従四位下に昇任した。さらに、天明元年(一七八一)閏五月には京都所司代となり侍従となった。同四年五月には幕府老中に任ぜられ、同七年四月備後守となり、寛政二年(一七九〇)二月老中職を辞したが、まさに、譜代大名の典型的な立身出世コースを歩んだ一人でもあった。(常陸笠間藩牧野家文書、『新訂寛政譜』)。この間、役職就任に伴う上方関係の所領は、どのように変化したか、以下、具体的にみたい。
安永六年九月の大坂城代就任にともない、同年一一月、陸奥国磐前・田村・磐城三郡の所領が、河内国丹南・丹北・石川・渋川・茨田、和泉国南・日根、播磨国神東・加東・加西・多可の諸郡に所替えとなった。河内・和泉という畿内の経済的最先進地域と、東播地区の加古川・市川地域の沃野を含んでいる。飛地領の旧領主は、京都・大津・大坂に所在した幕領代官たる角倉与一・小堀数馬・石原清左衛門・青木楠五郎・辻六郎左衛門といった代官たちである。牧野家の上方飛地領は、幕府直属代官の支配地を割き、構成されている(表28)。
国名 | 郡名 | 村名 | 村高 | 旧領主 |
---|---|---|---|---|
河内 | 丹南6カ村 | 野中 | 1,138.148 | 角倉与市 |
野中新田 | 1.848 | 同 | ||
伊賀 | 487.855 | 同 | ||
多治井 | 695.190 | 同 | ||
小平尾 | 516.568 | 同 | ||
阿弥 | 388.015 | 同 | ||
阿弥新田 | 0.438 | 同 | ||
岡 | 739.046 | 石原清左衛門 | ||
小計 | (3,967.108) | |||
3,697,107 | ||||
丹北7カ村 | 若林 | 213.741 | 角倉与市 | |
太田 | 155.305 | 同 | ||
川辺 | 626.130 | 同 | ||
長原 | 1,388.026 | 同 | ||
木本※ | 82.6737 | 同 | ||
更池※ | 24.898 | 石原清左衛門 | ||
田井城 | 472.673 | 同 | ||
小計 | 2,913.4467 | |||
石川6カ村 | 富田林 | 98.939 | 角倉与市 | |
寛弘寺※ | 347.922 | 同 | ||
神山 | 456.114 | 同 | ||
森屋 | 737.034 | 同 | ||
大ケ塚 | 77.090 | 同 | ||
一須賀※ | 197.4376 | 同 | ||
小計 | 1,914.5366 | |||
渋川3カ村 | 久宝寺 | 1,985.470 | 角倉与市 | |
衣摺※ | 145.8283 | 同 | ||
亀井※ | 505.265 | 同 | ||
小計 | 2,636.5633 | |||
茨田11カ村 | 走谷 | 205.678 | 小堀数馬 | |
池田川 | 555.017 | 同 | ||
池田中 | 404.443 | 同 | ||
池田下 | 451.511 | 同 | ||
田井 | 369.256 | 同 | ||
対馬江※ | 251.446 | 同 | ||
下番 | 1,488.288 | 同 | ||
安田 | 270.513 | 辻六郎左衛門 | ||
平池 | 299.839 | 同 | ||
氷野 | 513.038 | 同 | ||
赤井 | 327.712 | 同 | ||
小計 | (5,135.741) | |||
5,135.743 | ||||
合計 | (16,568.3956) | |||
16.563.3976 | ||||
和泉 | 日根5カ村 | 樫井 | 570.476 | 小堀数馬 |
北野 | 371.6446 | 同 | ||
桑畑 | 185.367 | 同 | ||
西吉見 | 407.6037 | 青木楠五郎 | ||
兎田 | 568.9335 | 小堀数馬 | ||
小計 | 2,104.0268 | |||
南7カ村 | 吉井 | 489.782 | 青木楠五郎 | |
中井 | 564.984 | 同 | ||
箕土路 | 484.0026 | 同 | ||
西大路 | 215.522 | 同 | ||
新在家※ | 491.0765 | 同 | ||
池尻※ | 320.3951 | 同 | ||
大町 | 400.4196 | 同 | ||
小計 | 2,966.1818 | |||
合計 | 5,070.2086 | |||
播磨 | 神東2カ村 | 北山田※ | 87.949 | 辻六郎左衛門 |
南山田 | 639.472 | 同 | ||
小計 | 727.421 | |||
加東3カ村 | 東古瀬※ | 390.8198 | 辻六郎左衛門 | |
上鴨川 | 300.501 | 同 | ||
太郎太夫※ | 316.396 | 同 | ||
小計 | 1,007.7168 | |||
加西17カ村 | 殿原 | 486.054 | 辻六郎左衛門 | |
大内 | 320.749 | 同 | ||
鴨谷※ | 168.732 | 同 | ||
佐谷 | 319.055 | 同 | ||
三国 | 485.127 | 同 | ||
田原※ | 825.140 | 同 | ||
尾崎 | 85.742 | 同 | ||
東剣坂 | 742.948 | 同 | ||
戸田井 | 192.391 | 同 | ||
西長 | 249.370 | 同 | ||
同神田 | 0.212 | 同 | ||
中山 | 93.908 | 同 | ||
大柳 | 91.660 | 同 | ||
段下※ | 160.013 | 同 | ||
中西 | 389.890 | 同 | ||
東横田 | 388.874 | 同 | ||
同新田 | 0.112 | 同 | ||
東南 | 169.144 | 同 | ||
南殿原 | 255.509 | 同 | ||
小計 | (5,424.630) | |||
5,191.630 | ||||
多可5カ村 | 大伏 | 186.053 | 辻六郎左衛門 | |
羽山 | 165.044 | 同 | ||
西安田※ | 362.408 | 同 | ||
東安田 | 434.440 | 同 | ||
奥畑 | 291.678 | 同 | ||
小計 | (1,439.623) | |||
1,439.626 | ||||
合計 | (8,599.3908) | |||
8,366.3938 | ||||
総計 | (30,237.995) | |||
30,000.000 |
注)1 ※印は相給村落 2 ( )内は、計算し直した数値
3 安永8年「河内和泉播磨国御領地反別帳」より作成。
さらに、大坂城代就任のとき「於大坂高四万石之役高人数之積を以、相勤候様被 仰出之」(常陸笠間藩牧野家文書)とあるように、役知高として、三万石よりも四万石が込められていた。そこで翌七年一一月、さらに笠間城の城付領のうち、一万五〇〇〇石の所領を、大坂最寄(もより)で引換えすることになった。その結果は、河内石川郡で喜志村など、古市郡で誉田・古市両村とをあわせ五六〇〇石、播磨加古郡で二カ村一八八〇石、赤穂郡で一〇カ村五八三〇石、美作国大庭郡で八カ村三四二六石と、新しく上方飛地領の拡大をみた。ここでは役知としての知行地の対象が、摂河泉だけではなく、東播から西播地区へ、そして美作国といった中国方面まで拡大されたことがわかる(表29)。ところが、天明四年八月に「大坂最寄」所領中、河内国石川郡之内と、播磨国赤穂郡全部と、神東(じんとう)・加東・加西諸郡の一部、美作国大庭郡全部とが、常陸国茨城・河内・真壁三郡の旧領の村々に引き戻されたらしい(常陸笠間藩牧野家文書)。その後、天明八年三月の八万石知行目録写によると、上方領の村々は、河内国丹南・丹北・石川・渋川・茨田・古市の各郡で二万九四一石余、和泉国南郡のみで二一八五石余、播磨国神東・加東・加西・多可・加古の各郡で五五二四石余である。上方領三万石の領地に戻ったが、河内・和泉二国で約八〇%以上を占めている(表30)。以上のような所領配置は、寛政二年(一七九〇)二月、貞長が老中を退任するまでつづき、老中退任の結果は、上方領がすべて陸奥国の磐前・田村・磐城の三郡へと移り(「常陸笠間藩牧野家文書」『新訂寛政譜』)、上方西国領飛地とは一切関係がなくなるのである。
国名 | 郡名 | 村名 | 村高 | 旧領主 |
---|---|---|---|---|
河内 | 丹南6カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | |
丹北7カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
石川9カ村 | 富田林 | 表28に同じ | ||
寛弘寺※ | 同 | |||
神山 | 同 | |||
森屋 | 同 | |||
大ケ塚 | 同 | |||
一須賀※ | 同 | |||
山田 | 1,420.574 | 角倉与市 | ||
喜志 | 1,826.694 | 同 | ||
山中田 | 454.412 | 同 | ||
小計 | 5,616.2166 | |||
渋川3カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
茨田11カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
古市2カ村 | 誉田 | 914.989 | 石原清左衛門 | |
古市 | 1,124.7053 | 同 | ||
新田 | 0.904 | |||
小計 | (2,040.5983) | |||
2,040.6683 | ||||
合計 | (22,310.6739) | |||
22,305.7459 | ||||
和泉 | 日根5カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | |
南7カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
合計 | 5,070.2086 | |||
播磨 | 神東2カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | |
加東3カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
加西17カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
多可5カ村 | 表28に同じ | 表28に同じ | ||
赤穂10カ村 | 赤松 | 473.349 | 青木楠五郎 | |
苔縄 | 408.329 | 同 | ||
与井新 | 389.014 | 同 | ||
佐用谷 | 268.813 | 同 | ||
二柏野 | 113.753 | 同 | ||
榊 | 240.199 | 同 | ||
小河 | 471.134 | 同 | ||
原 | 753.098 | 同 | ||
二木 | 324.040 | 同 | ||
同新田 | 0.065 | 同 | ||
牟札東 | 507.974 | 同 | ||
小計 | (3,949.768) | |||
3,949.968 | ||||
加古2カ村 | 東二見 | 1,142.078 | 青木楠五郎 | |
二子 | 738.628 | 同 | ||
小計 | 1,880.706 | |||
合計 | (14,224.8598) | |||
14,197.0678 | ||||
美作 | 大庭8カ村 | 三崎河原 | 707.598 | 小林孫四郎 |
赤野 | 560.543 | 同 | ||
目木 | 870.653 | 同 | ||
新田 | 0.240 | 同 | ||
錨屋 | 157.408 | 同 | ||
久見 | 141.703 | 同 | ||
下湯原 | 271.658 | 同 | ||
樫木西谷 | 507.372 | 同 | ||
大庭※ | 209.8027 | 同 | ||
合計 | 3,426.9777 | |||
総計 | (45,032.720) | |||
45,000.000 |
注)1 ※印は相給村落 2 ( )は、計算し直した数値
3 安永8年「河内和泉播磨国御領地反別帳」より作成。
国名 | 郡名 | 村名 | 村数 | 村高 |
---|---|---|---|---|
河内 | 丹南 | 野中、伊賀、多治井、小平尾、阿弥、岡 | 6 | 3967.108 |
丹北 | 若林、太田、川辺、長原、木本、更池、田井城 | 7 | 2913.4467 | |
石川 | 富田林、寛弘寺、神山、森屋、大ケ塚、一須賀之内、山田之内、喜志 | 8 | 4251.6141 | |
渋川 | 久宝寺、衣摺、亀井 | 3 | 2636.5633 | |
茨田 | 走谷、池田川、池田中、池田下、田井、対馬江、下番、安田、平池、氷之、赤井 | 11 | 5131.743 | |
古市 | 誉田、古市 | 2 | 2040.6683 | |
和泉 | 南 | 吉井、箕土路、新在家、池尻、大町 | 5 | 2185.6758 |
播磨 | 神東 | 南山田 | 1 | 639.472 |
加東 | 太郎太夫 | 1 | 316.396 | |
加西 | 大内、鴨谷、佐谷、田原、西長、大柳 | 6 | 1974.918 | |
多可 | 大伏、羽山、西安田 | 6 | 713.905 | |
加古 | 東二見、二子 | 2 | 1880.706 | |
常陸 | 茨城 | 村名略 | 80 | 36922.4915 |
真壁 | 村名略 | 13 | 9812.5782 | |
河内 | 村名略 | 4 | 6084.165 |
注)「牧野備後守貞長宛領知目録」写による。
以上、笠間藩の上方飛地領は、貞長のとき、安永六年に大坂城代就任を機として三万石の知行高で設定され、一時には、四万五〇〇〇石と城付地の知行高より大きく、藩領全体の約五六%にも及んだが、老中退任の寛政二年で終止符をうち、その間、一二カ年存続した。役知領たる上方領は、城付地の一部を割き、同等の知行高で設定され、加増されるのではなく、役職退任とともに旧領に引き戻されるといった事例がとられている。