宇都宮藩は地理的に北関東の政治要地に位置していた。それは、単に江戸を防衛するにとどまらず、徳川将軍の守護神をまつる日光東照宮警固という重役を担うものであった。そのため歴代藩主がいずれも譜代大名であり、しかも、それが交代・転封を重ねたことが、笠間藩牧野氏の場合と同様に、著しい特色となったのである。具体的には幕初の蒲生秀行から始まり、家康の外孫たる奥平家昌、ついで本多正純その後の奥平忠昌、松平忠弘、奥平昌章らと相ついで入封をくりかえした。宝永七年(一七一〇)越後高田より戸田氏真(うじざね)が入封し、忠余(ただみ)・忠盈(ただみつ)と三代在城したあと、寛延二年(一七四九)肥前国島原へ国替えになった。安永三年(一七七四)六月、同地から戸田忠寛(ただとお)がふたたび宇都宮に入封し、幕末まで藩主の定着をみた(『新訂寛政譜』『栃木県史』近世二)。
戸田忠寛は肥前国島原藩として七万七八五〇石の拝領高をもった。明和七年(一七七〇)十二月、奏者番となり、安永三年六月に宇都宮城に再入封したが、下野国河内・都賀・塩谷・芳賀四郡の内で高七万七八五〇石のところ、込高一〇万四三四七石余を拝領したという。同四年五月、金五〇〇〇両を幕府より拝借し、宇都宮城下火災の復興などに充当したのである。同五年将軍家治の日光社参に従い、その任務をつとめ、同年六月、寺社奉行加役となった。
天明二年(一七八二)九月、忠寛は大坂城代となり従四位下に叙せられた。同年一〇月、下野国四郡のうち、二万五〇〇〇石をあらため「領地遠き故」をもって、「大坂向寄」の地に引き換えられたが、それは、河内国石川・交野・茨田・讃良・若江の諸郡、播磨国赤穂・飾西・加東・揖東・多可・加西の諸郡にまたがっていた(表31)。藩にとり歴代藩主の共通の願望でもあった畿内・西国の沃野への村替を実現し得たのである(『栃木県史』史料編近世一)。このとき領知の河内石川郡の村々は、市域内である南大伴村のほかに、一須賀・春日などの各村であった(栃木県立文書館所蔵戸田家文書)。もっとも『河南町誌』には、大ケ塚・春日・山田・北大伴・南大伴の各村であったと記しているが、その典拠を何によったかは不明である。天明四年五月、京都所司代に昇進、侍従に進み、金一万両の拝借を許された。同時に、さきに村替えされたうちの畿内・西国の難渋村一万五〇〇石余が、再度村替えされた。しかし、この間幕閣においては、松平定信による田沼派の追い落としが始まっていた。天明六年、田沼意次の老中罷免につづいて、田沼派と目されていた戸田忠寛が同七年二月、京都所司代を免ぜられたので、翌八年正月、上方領地の二万五〇〇〇石がすべて下野の旧領に戻され、市域の村と戸田氏との関係はなくなったのである(『栃木県史』史料編近世一)。
国・郡 | 村名 | 村高 | |
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摂津 | 西成 | 濱 | 266.552 |
新在家 | 297.763 | ||
今里 | 257.685 | ||
野里 | 1090.470 | ||
野里 | 2.54 | ||
東成 | 天王田 | 247.597 | |
蒲生 | 339.669 | ||
野江 | 687.329 | ||
上辻 | 194.23 | ||
河内 | 石川 | 一須賀 | 543.6164 |
春日 | 738.092 | ||
春日叡福寺分 | 9.548 | ||
南大伴 | 245.843 | ||
茨田 | 門真一番上 | 156.842 | |
大庭二番 | 435.381 | ||
梶 | 309.199 | ||
北 | 552.445 | ||
出口 | 843.165 | ||
打越 | 384.659 | ||
大庭六番 | 389.258 | ||
東橋波 | 282.636 | ||
大庭七番 | 475.641 | ||
西橋波 | 436.384 | ||
土居 | 439.224 | ||
焼野 | 224.152 | ||
馬場 | 252.761 | ||
世木 | 512.306 | ||
大枝 | 615.383 | ||
諸福 | 458.25 | ||
下 | 336.26 | ||
黒原 | 334.28 | ||
神田 | 724.217 | ||
若江 | 大信寺新田 | 47.593 | |
讃良 | 深野新田 | 1091.684 | |
深野北新田 | 503.024 | ||
交野 | 村野 | 1034.151 | |
15862.7934 |
注)「当用留」(栃木県立文書館所蔵戸田家文書)による。