浜松藩水野氏

500 ~ 503

天保改革の推進者として幕政上その名をはせている水野忠邦は、文化九年(一八一二)、父忠光の致仕により肥前唐津藩主となった。同一二年一一月には奏者番、同一四年九月には寺社奉行を兼任して、幕閣要路への登龍門とされている役職を歴任したのである。しかし、長崎警備の重任を担っている唐津藩主である間は、幕閣人事から除外されざるを得ないという不文律があった。それは、近世後半期にあっては、幕府の役職と一定の譜代大名との城地が密接に関連し、その城地を行政的転封によって経由しなければ、幕閣として昇進できないというルールが成立していたのであった。そこで忠邦は、昇進と転封とを同時に成功させるため、はげしい運動を開始した。その結果は、文化一四年九月一〇日、既述のとおり、寺社奉行に就任するとともに、九月一四日には浜松に転封となったのである(「水野忠邦年譜」東京都立大学付属図書館水野家文書、北島正元『水野忠邦』)。

写真151 水野忠邦墓 (茨城県結城市旧万松寺墓地)

 浜松は近世初期以来、譜代大名の城地であった。天正一八年(一五九〇)豊臣系の大名堀尾吉晴の入部以来、松平忠頼、水野重央(しげなか)、高力忠房、松平乗寿(のりひさ)、太田資宗、青山宗俊、本庄資俊、松平信祝(のぶとき)、松平資訓(すけのり)、井上正経とめまぐるしく藩主が交代して水野忠邦の入封となったが、この藩主で老中以下の要職についた者が多く、その点では、浜松は譜代大名の行政的転封とむすびつく重要な城地の一つでもあった。忠邦は浜松の転封に際して、城付領五万石のほか、近江浅井郡などに一万石の飛地領を与えられ、表面六万石となったが、内高が約二〇万石の唐津藩と比較すると、内高と表高とがそう大差のない浜松藩では、実質的には大減収であったとされている(北島正元前掲書)。

 文政八年(一八二五)五月、忠邦は大坂城代に就任し従四位下へと昇進した。ところが、翌九年一月には大坂城代在勤のための役知として、摂津国東成郡六カ村、川辺郡三カ村で計三三八一石余、播磨国加西郡三カ村、揖東郡三カ村、加古郡三カ村で計五〇〇七石余の所領のほか、河内国若江郡四カ村で約三二六〇石余、丹北郡五カ村で約二六四七石余り、石川郡で春日村と大伴(南カ)村の二カ村で九九二石余、合計一万五〇〇〇石余が与えられ、その代わりに、浜松城付の所領長上・豊田二郡、山名郡のうちで約一万五〇〇〇石余が上知された(表32)。さらに、忠邦は九年一一月、京都所司代に転任したが、一〇年八月に上方飛地領のうち、播磨国五〇〇〇石余がすべて上知され、その代地として、河内国渋川郡四カ村四〇五二石余と、石川郡で山城村と北大伴村で計一〇六四石余があらたに加増され、両郡で約五一一六石余が与えられた。その結果(表33)は、市域では南大伴・北大伴二カ村が水野領になったのである(「水野忠邦年譜」都立大学付属図書館水野家文書、北島正元前掲書)。ところが、文政一一年一一月、忠邦が西丸老中に昇進すると、天保元年閏三月には、大坂在勤中の替地たる約一万五〇〇〇石余が、すべて収公せられ、文政九年以前の旧領たる浜松城近在の長上・豊田・山名の三郡に領地が戻り、市域との関係がなくなったのである。飛地領の統治をめぐる諸問題については、後述する。

表32 浜松藩水野氏摂河播領地〔文政9年(1826)3月〕

(単位 石)

国・郡 村名 村高
河内 若江 高井田 1817.899
森河内 438.501
小若江 248.9691
本庄 754.734
小計 3260.1031
丹北 長原 1338.206
木ノ本 82.6737
川辺 626.13 
三宅 508.7496
三宅善左衛門分 92.1934
小計 2647.9572
石川 春日 738.092
(南)大伴 254.843
小計 992.935
摂津 東成
川辺
6カ村村名略 2730.3119
3カ村村名略 651.65 
播磨 加西
揖東
加古
3カ村村名略 1060.747
3カ村村名略 1331.916
3カ村村名略 2614.593
総計 15290.2087
表33 浜松藩水野氏摂河領地〔文政12年(1829)2月〕

(単位 石)

国・郡 村名 村高
河内 若江 高井田 1817.899
森河内 438.501
小若江 248.9691
本庄 754.734
小計 3260.1031
丹北 長原 1338.206
木ノ本 82.6737
川辺 626.13 
三宅 508.13 
三宅善左衛門分 92.1934
小計 2647.9527
石川 春日 738.092
南大伴 254.843
山城 481.74 
北大伴 582.519
小計 2057.194
渋川 長野 220.963
横地 397.6873
大蓮 1448.043
久宝寺 1985.47 
小計 4052.1633
摂津 東成
川辺
5カ村村名略 2093.0969
他田島村 537.213
3カ村村名略 651.65 
総計 15398.3727

注)両表とも『尼崎市史』5、652~4ページの史料を図表化した。