丹後宮津藩の本庄氏は、藤原氏の系統をひき、徳川氏から松平の称号を賜った。宮津藩本庄氏の初代となった資昌(すけまさ)は、宝暦八年(一七五八)一二月、遠江国浜松より領地高七万石で宮津に入封した。その所領は丹後国で宮津城下(京都府宮津市)を中心に、与謝(よさ)・加佐・中・竹野四郡で約六万石をしめ、残りの一万石は、近江国栗太・野洲・蒲生・甲賀の四郡に所在していた(『新訂寛政譜』)。本庄宗発(むねあきら)は本庄家第五代当主であり、天明二年(一七八二)江戸に生まれ、兄主殿頭宗允(とのもかみむねただ)の養子となった。文化六年(一八〇九)伯耆守と称し、同九年三月奏者番に就任した。文政元年(一八一八)八月、寺社奉行加役となった。ついで、同九年一一月、大坂城代となり従四位下に昇進した。大坂城代就任は、さきの水野越前守忠邦のあと役であった。翌一〇年四月、大坂城に赴き、同年一〇月には丹後国の内で一万三〇〇〇石は、大坂在勤に際し摂津・河内両国の内で引替えられた。幕府からは拝借金一万両を賜った(「本庄家譜」「系譜」(舞鶴市郷土資料館所蔵))。なお、文政一〇年三月、大坂城代に赴任するとき、つぎのような内容の願書を差し出している。このたび大坂城代を仰せ付けられたが「元来領知下免之場所多」いうえに、「領分丹後国宮津より大坂迄者凡三十里」もある遠距離で、途中に嶮岨な峠があり馬荷などでの往来は至難である。大坂までは川船などによる通路がなく、諸物資の運送も至難であり、宮津城下から離れている村落では、城下への廻米が翌年になることが多い。大坂城代に就任した場合、丹後の領地から遠く運送などに差し支えるので、「大坂於二最寄一領知御引換」できることがあると聞いている。ついては、「丹後国領分竹野郡与謝郡中郡」の内で「弐万石程」を、大坂近辺の村々に領知替えしてほしいという趣旨であった(「本庄家譜」(舞鶴市郷土資料館所蔵))。その結果は、前述したとおりで一万三〇〇〇石だけ、大坂近辺の村々との領知替えが実現した。それは、摂津国東成郡、河内国若江郡・茨田郡・志紀郡・石川郡の村々であり、市域では、新堂・毛人谷・中野・喜志・新家の各村であったらしい(近世Ⅰの三、新堂平井家文書『富田林市史研究紀要』四)。
宗発はその後、文政一一年一一月から天保二年(一八三一)五月まで京都所司代、天保六年六月から同七年九月まで老中を勤めた。役職への就任と辞任とに関係して、京都所司代を辞任した天保二年七月から、大坂周辺への引換領地一万三〇〇〇石のうち、六五〇〇石余は丹後国の旧領に戻され、さらに、老中退任後の天保八年三月には、残る上方領の、六七七〇石余もすべて丹後国の旧領に戻り、市域の宮津藩領は幕府代官領へと支配替えになり、本庄氏との関係はなくなったのであった(同上)。
近世中期以降、諸大名の藩財政困難に際会して、生産力が豊かで年貢収入の多い畿内地域に所領を得ることは、諸大名にとり、共通の願望でもあった。関東・東国に城付地をもった譜代大名は、役職就任の機を利用し、上方領地に強い願望をもち、城付地と上方所領との交換を実現させた。前述の笠間藩牧野氏や宇都宮藩戸田氏などの事例は、まさしく、この傾向にそったものであったし、宮津藩本庄氏も同じ事例に属すると考えてよい。