小田原藩上方領支配役人

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小田原藩は市域を支配した遠隔地譜代諸藩と相違し、比較的に長い期間にわたり、摂・河両国に所領をもっていた。河内領飛地の支配のため、諸役人を派遣していたと思われる。天明二年(一七八二)の家臣団中に、職制として、大坂詰賄方と河内代官が設けられていた(『神奈川県史』通史編三)。さらに、文化九年から河州領が拡大され、北河内だけでなく、中・南河内の諸郡すなわち、丹南・古市・安宿部・石川の各郡にまで拡大され、摂津国東成・住吉の二郡にまで及んだが、それらと関連して、飛地領関係の諸役人の数も多くなってきた。天保四年には、「高弐百石 摂河郡奉行伊谷治郎右衛門」とあり、席順は御用人格である。摂・河両国飛地領農村を支配する役職がおかれ、藩にとり摂・河両国飛地農村の重要性が、大きかったことを示している。ほかに、「辻内倉蔵 切米六石三人扶持摂河御代官開発方改方御賄方兼帯」「藤井順助 切米六石二人扶持摂河郡奉行手代開発方小頭兼」「細田五郎兵衛 切米五石二人扶持摂河御代官手代賄方下役兼帯」と三人の関係役人があった。また、大坂詰下級役人として、御持筒一人御手先並九人大坂蔵屋敷中間五人がいたことが確認される(『神奈川県史』通史編三)。

 安政五年(一八五八)の「順席帳」によると、摂・河関係諸役人がさらに増加し各方面にわたっていることが、窺える(小田原市立図書館蔵)。すなわち、

 御用人格

高八拾石定坂摂河郡奉行御役高弐百俵            山崎彦四郎清興当巳五拾歳

 郡奉行

高四拾五石定坂摂河御役高弐百俵              岡本源兵衛保則当巳五拾壱歳

(御用人格)

銀五枚定坂                        山崎徳三郎清孝当巳弐拾壱歳

御切米拾六石定坂摂河御代官開発方改役御蔵扶持四人分、屋敷御賄方兼帯御役高百俵      平津助八寧整当巳五拾五歳

御切米九石定坂摂河御代官開発方改役御屋敷御賄方兼帯    川口渡右衛門英重当巳弐拾八歳

銀五枚定坂                        平津吉之輔寧静当巳弐拾弐歳

 なお、安政四年の史料によれば藩の摂河その他の借用金の総数は一五万三九〇〇両余であり、京・大坂の銀主たちへの扶持渡米が、総計一四七二俵であった。藩は恒常的に京坂間の豪商から借銀しており、家中への扶持米その他に充当している。これらの借銀の担保となったのが、摂・河飛地領の村々の年貢米であったことは、いうまでもないところである(『神奈川県史』通史編三)。