常陸下館藩石川氏

510 ~ 513

常陸下館藩石川氏は、もと、伊勢国神戸に在封し、神戸藩とよばれた。伊勢神戸藩石川氏の初代たる石川総長は幕臣として、慶長一八年(一六一三)六月に小姓頭、慶安元年(一六四八)三月には大番頭となった。同四年四月、父忠総の遺領の内で、伊勢国河曲(かわの)・鈴鹿両郡で一万石を分封され、承応四年(一六五五)伊勢国神戸城(現三重県鈴鹿市)を居城とした。ついで、万治三年(一六六〇)正月、大坂定番となり、河内国石川・古市両郡で約一万石を加増され、計二万石を領有した。河内国は石川氏の発祥地であり、父祖ゆかりの土地でもあり、市域では龍泉村が所領であった。二代目の総良は陣屋の所在地たる白木村などに、用水地を築き農業を勧め、龍泉寺に石鳥居、弘川寺に絵馬堂や仏画表装の寄進をなし、延宝八年(一六八〇)千早城跡に楠木氏の石塔をたてた。また、和泉国の延宝検地を岸和田藩岡部行隆とともに担当し、幕政に意をつくした(『新訂寛政譜』『河南町誌』)。

写真155 下館藩白木陣屋跡(河南町)

 三代目の総茂は、貞享二年(一六八五)に遺領を継いだとき、弟の旗本大久保忠明に河内国で三〇〇〇石を分封した。石川家の内では傑出した藩主の一人であり、幕閣における地位も、宝永五年(一七〇八)閏正月、奏者番、正徳四年(一七一四)九月寺社奉行を兼ね、さらに享保二年(一七一七)九月には若年寄に昇進し、同一〇年従四位下に叙せられた。また、学問奨励のことで将軍吉宗に重用された。享保一七年三月、常陸国下館(現茨城県下館市)に国替えとなったが、同時に三〇〇〇石を加増され、約二万石となった。その所領は常陸国真壁郡で三〇カ村約一万四二〇〇石、河内国石川・古市両郡で二二カ村約六八四〇石であり、表35に示すごとくである(常陸国下館藩家老牧家文書(学習院大学史料館)、下館市中村兵左衛門氏文書)。

表35 下館藩石川氏領知分布〔天保9年(1838)〕

(単位:石)

国名 郡名 村名 村高
河内 古市 碓井之内 471.686
蔵之内之内 207.079
西坂田 167.633
新家 124.367
(小計) 970.765
新田畑 1.836
石川 平石 404.642
上河内 242.207
水分 541  
二河原部 152.122
桐山 340.705
吉年 44.769
千早 101.8 
中津原 221.93 
龍泉之内 332.055
寛弘寺之内 439.588
馬谷 63.49 
1209.14 
白木 1097.7 
南加納 367.577
北加納 217.12 
小吹 253.39 
東坂 437.212
同所新田 0.292
甘南備之内 405.755
(小計) 6782.494
新田畑 14.422
常陸 真壁 西郷谷村 589.874
他小計30カ村 14256.6669
総計 20,000.000
城付込高 1182.593
物成詰込高 917.385
河内国之内領知村々より出新田畑 16.258

注)「天保九年五月常陸国真壁郡・河内国古市郡・石川郡領知郷村高辻帳」(学習院大学史料館所蔵牧家文書)による。

写真156 石川総茂墓 (河南町南加納墓地)

 市域では龍泉村と甘南備村とが、いずれも石川家領で、相給領として存在した。

 その後下館藩石川氏は、総陽(ふさはる)・総候(ふさとき)とつづき、総弾(ふさただ)が明和七年一〇月に遺領をついだ。安永二年(一七七三)二月、大坂城加番、天明八年(一七八八)九月、日光祭礼奉行となった。総弾治世のときは、天明の大飢饉や小貝・勤行両河川の大洪水、下館の大火など打続く災害と藩財政の逼迫(ひっぱく)で、経費節約令が発せられた。総弾は石門心学を学び、中沢道二を下館に招き、心学講話を行わせた。かつて、河内領代官であった黒杉政胤(まさたね)を助け、石門心学講舎たる「有隣舎」を設立させた。これら一連の動きは、天明飢饉以降、荒廃した領民への教化政策とみられる。

 総弾(ふさただ)のあと、総般(ふさつら)・総親(ふさちか)・総承(ふさつぐ)と藩主が交代し、天保七年(一八三六)一二月から、総貨(ふさとみ)が遺領を継いだ。老中水野忠邦の推挙で御用番となり、天保一二年一一月、大坂加番となった。襲封当時、藩の財政窮乏はその極に達したといわれ、負債額は三万五〇〇〇両を数え、天保期の大飢饉におそわれその災害は甚しかった。藩財政再建、農村復興のため、二宮尊徳を招き、下館での仕法を乞うに至った。この仕法は翌九年一二月から着手され、きびしい緊縮財政と荒地開発を中心に、継続された。下館藩の最後の藩主は総管(ふさかね)である。彼は嘉永二年(一八四九)、父の遺領を相続し、安政四年(一八五七)七月、大坂加番、文久二年(一八六二)に再び同役、その任期終了後、河内領内を巡察した。慶応二年(一八六六)六月、講武所奉行、同年八月陸軍奉行、翌年若年寄兼陸軍奉行といった幕閣の要職を歴任したが、明治二年(一八六九)版籍奉還とともに、同年六月、下館藩知事となり、同四年、廃藩を迎えたのである。その間、領地の支配替えはなく、市域の二カ村もひきつづき藩領としてつづいた(『新訂寛政譜』『河南町誌』『下館市史』)。

 下館藩河内飛地領を統治する役所は石川郡白木村にあり、伊勢神戸藩の時代から設けられたらしい。本藩から派遣された幾人かの藩士が滞在し飛地領を統治した。近世後半期から幕末期にかけては、郡代兼年寄のほか、代官四人があり、その一名は飛地領の年貢関係の収納や会計にあたり、他の三名は刑事訴訟を担当したという。ほかに徒士目付があった。代官として名前が判明するのは、黒杉氏・高崎氏・雨森氏・和田氏らであり、地域出身の甘南備村の松尾氏は地方の豪族で、石川氏に登用され、小姓格・徒士格となったという(『河南町誌』)。下館藩の所領は、既述のごとく、河内飛地領が約四〇%を占めるうえに、関東の常陸の所領は荒廃したやせ地が多い事情があって、河内領に多くの経済的負担が賦課された。藩の重臣クラスの河内領巡見なども実施されたが、これらについては、後述したい。