膳所藩本多氏

513 ~ 517

徳川氏の譜代の重臣たる本多氏の一族本多康俊は、近江膳所藩の藩主である。彼は、慶長五年(一六〇〇)上杉景勝の討伐のとき従軍し功労があり、翌六年、三河国西尾城主となり二万石を領有した。さらに、大坂の陣など度重なる戦功により一万石を加封され、元和三年(一六一七)には、三万石で膳所城主となった。康俊のあとを継いだ俊次は、元和七年三月、三河国西尾へ転封となった。そのあと、膳所城には伊勢国長島から、菅沼定芳が入部した。定芳は寛永一一年まで在封し、近江国滋賀・栗太両郡を中心に約三万一〇〇〇石余を領有した。同年、一万石を加増され丹波国亀山城主となった。膳所城には新しく下総佐倉城主の石川忠総が、七万石で入部した。石川氏は近江国栗太・滋賀・高島・甲賀・浅井・伊香の諸郡と、河内国錦部・石川・丹南の各郡で合計七万石を支配した。膳所藩の河内領飛地は、このとき設定されたと思われ、錦部郡四〇カ村八九九八・二四六石、石川郡二カ村九七七・八七石、丹南郡一カ村二三・八六六石、合計一万石余の所領で、市域では錦部郡の彼方・新家・甲田・伏見堂・廿山・板持の六ヵ村と石川郡の佐備・龍泉(寺)に膳所藩領があった。他方、三河国西尾へ転封となった本多俊次は、やがて伊勢国亀山に移り、伊勢国鈴鹿・三重・河曲(かわの)の三郡で五万石の所領を領有した。その後、慶安四年(一六五一)、父康俊の故地であり母方の菅沼氏ゆかりの地で、かつての旧地膳所城に二万石を加増されて再入部した。その所領(表36)は石川氏の旧領をそのままで引き継ぎ、市域内の二カ村も変更はなかった(『新訂寛政譜』『新修大津市史』)。

表36 膳所藩領村落分布〔寛文4年(1664)〕

(単位:石)

村数 村名 村高
近江 栗太 69 (村名略) 34119.57
滋賀 20 ( 〃 ) 8645.915
高島 26 ( 〃 ) 8068.781
甲賀 6 ( 〃 ) 4677.712
浅井 7 ( 〃 ) 3489.44
伊香 4 ( 〃 ) 998.58
河内 錦部 40 小山田・唐久谷・下里・日野・鬼住・喜多・下岩瀬・天見・流谷・上岩瀬・寺本・彼方・古野・上原・西代・市・長野・新家・甲田・惣作・原・石仏・野・向野・清水・三日市・伏見堂・新町・加賀田・片添・天野山・石見川・鳩原・太井・小深・畑・小塩・廿山・板持・観心寺 8998.246
石川 2 佐備・竜泉寺 977.87
丹南 1 向野 23.886
合計 175 70000.000

注)国立史料館編『寛文朱印留』(上)による。

 本多氏膳所藩第二代の本多康将(やすまさ)は、寛文四年(一六六四)四月、父俊次の隠居とともに膳所藩主となった。康将は延宝五年(一六七七)の河内国延宝検地に活躍したが、同七年六月に致仕すると、二男忠恒に一万石を分知して独立させ、後継者の康慶は六万石で膳所藩を継承した。その所領は表37のとおりであり、市域の河内国石川郡の佐備・龍泉の二カ村は、明治初年の廃藩まで膳所藩領であることは、変わりがなかった。近世中期ごろと考えられる「膳所藩領明細帳」(滋賀県立図書館所蔵「県有影写古文書」)によると、当時の藩領村総数一五四カ村、総石高六万七三四石九斗六升を、つぎの三つの地域分けをしているのである。すなわち、①地廻(じまわり)八九カ村(栗太郡七四カ村、滋賀郡一四カ村、甲賀郡一カ村、高四万一九七三石余)、②高島分三六カ村(高島郡一八カ村、滋賀郡六カ村、浅井郡七カ村、伊香郡五カ村、高一万二三八六石余)、③河内分二九カ村(錦部郡二六カ村、石川郡二カ村、丹南郡一カ村、高六三七五石余)の三地域区分である。「地廻り」というのは、膳所城を中心とする城付地であり、高島分というのは、湖西の高島郡を中心とする地域であり、それらと並んで河内国飛地領の地域があったことが、理解される。藩にとり、河内飛地領の重要性を示すものといえる。

写真157 膳所城本丸跡(滋賀県大津市)
表37 膳所藩領村落分布〔貞享元年(1684)〕

(単位:石)

村数 村名 村高
近江 栗太 68 (村名略) 33656.055
滋賀 19 ( 〃 ) 8491.425
高島 18 ( 〃 ) 4877.944
甲賀 1 ( 〃 ) 1556.214
伊香 5 ( 〃 ) 1616.585
浅井 7 ( 〃 ) 3489.440
河内 錦部 26 小山田・唐久谷・下里・喜多・下岩瀬・上岩瀬・彼方・古野・上原・市・市村新田・惣作・石仏・野・向野・三日市・新町・加賀田・片添・天野山・石見川・鳩原・太井・畑・小塩・観心寺 5310.581
石川 2 佐備・竜泉寺 977.870
丹南 1 向野 23.886
合計 147 60000.000

注)『懐郷坐談』所収の朱印状写による。

 膳所藩本多氏は、康慶のあと、康命(のぶ)、康敏、康桓(たけ)、康政、康伴、康匡(ただ)、康完(さだ)、康禎(つぐ)、康融(あき)、康穰(しげ)と相ついで襲封した。康禎のとき、天保改革の上知令で河内飛地領が収公されようとしたが、上知令の挫折で無に帰し、市域の所領はそのままで、明治初年まで変わることはなく、長い間、市域を統治した大名の一人であった。

 藩の河内領飛地の支配役所は、錦部郡古野村に設けられた。現地で西高野街道に沿い、「元膳所」・「淨祐畑」(淨祐とは膳所藩藩主本多俊次をさす)とよばれている小字があり、恐らくその周辺に所在したと考えられている。設置の時期は明らかでない。陣屋詰代官として三人が勤務し、足軽その他の属吏が駐在したといわれる。明治四年(一八七一)七月の年紀をもつ陣屋絵図があり(膳所藩資料館所蔵文書)、広さは約三三三坪余で、北側に二間の門のほか、屋敷内には、大小いくつかの土蔵があって、訴人たちの待合所や玄関のほかに白洲も設けられ奥の間や勝手・台所・湯殿や、罪人留置のための牢屋もあった。小規模ながらも河内領統治のための設備が整えられていたといえる。

 藩の農村統治の機構は、郡奉行(郡代ともいう)のもとに地方役(じかたやく)と、その配下に郷代官(ごうだいかん)があり、村方役人がこれに所属する機構であった。郡奉行は藩領内の土地と人民を掌握し、訴訟の裁許や年貢収納の指揮など、農政の全般を総括した。三~四名ぐらいというが、その詳細は不明である。地方役はそのもとで、農民支配に関与しており、さらに、その配下に郷代官があった。郷代官は、いわば、大庄屋的存在ともいうべきで、領内農村に居住して、広く藩領全体にわたり置かれ、農業を営み、その支配下の農村の民政を担当したものである。一人で数カ村か、十数カ村を受け持ち、その数は必ずしも一定していない。郡方役所からの触書を配下の各村庄屋に伝え、各村からの上申書を郡方役所に取り次ぐほかに、年貢収納事務に関係するが、直接に収納することはなかった。裁判や処罰についても、郷代官には処罰権はなく、あくまで調停者であり、仕置を実行するのは郡奉行以上であったとされている(『新修大津市史』四)。