河内西代・伊勢神戸藩本多氏

517 ~ 521

本多康将の二男たる忠恒(ただつね)は、延宝七年(一六七九)六月、分家を許され、近江国高島・甲賀両郡と河内錦部郡とで一万石の領地を与えられた。これが西代藩で、市域では新家・甲田・伏見堂・廿山之内・板持之内の各村が、その所領であった(表38)。忠恒は天和二年(一六八二)一一月、はじめて封地に赴くことを許されたという(『新訂寛政譜』)。しかし彼は、天和元年、駿府田中城の在番を命ぜられ、その任の終了後、翌年一一月、膳所に帰国している。以後、駿府加番・京都火消役・江戸本所火消役などに連続して就任し、元禄一七年(一七〇四)に江戸で死去したとされている(「本多家家譜」、若林喜三郎「本多領神戸藩の成立とその歴史的背景」(『大手前女子大学論集』一六))。したがって、西代には入部していなかったとも考えられる。

表38 河内西代藩領知分布〔貞享元年(1684)〕

(単位 石)

村落 村高
近江 高嶋郡 請所、五番領、岡、鍛冶屋、産所、三田、仁和寺之内、三重生、十八川、 3190.837
9カ村
甲賀郡 西寺、東寺、柑子袋、吉永、正福寺、 3121.498
5カ村
河内 錦部郡 日野、鬼住、流谷、寺本、西代、新家、長野、甲田、伏見堂、原、小深之内、廿山之内、板持之内、清水、天見、 3687.665
15カ村
合計 29カ村 10,000.000

注)伊勢神戸藩本多家文書(大手前女子大学所蔵)による。

 忠恒のあとは、二男たる忠統(ただむね)が父の封をついだ。忠統は正徳元年(一七一一)一二月、西代藩の陣屋を在地で完成させた。河内長野市の旧市役所と西代小学校との間にあり、面積は広く三町六反三畝二九歩、高で二七石七斗余の土地である。東西一町二〇間、南北二町五五間の規模であった(『河内長野市史』六)。彼は英明な藩主の一人であり、享保二年(一七一七)九月に大番頭、同九年一二月に奏者番兼寺社奉行、同一〇年六月に若年寄(勝手掛)と幕閣内の役職を歴任した。そして、将軍吉宗のもとで享保改革の諸政策を遂行していったのである。老中松平乗邑と協力して財政難の打開につとめ、「上米」の制の廃止にも与って力があった。また、享保一七年の西国の飢饉救済にも奔走した。その事跡は、「仁風一覧」として、将軍吉宗が特別にこれを印刷させたほどであった。そのほか、延享四年(一七四七)八月、殿中において熊本藩主細川越中守宗孝が、旗本板倉修理勝該(かつたね)により暗殺されるという一件があり、忠統のよき処置で細川家は断絶を免れたことがあった。なお彼は、古学の古文辞学派の荻生徂徠の高弟で、その詩文集には師の徂徠や門弟たちとの、唱和の詩文がみられる。文人大名としての一面を物語る。彼の詩文集は、「猗蘭台(いらんだい)集」といい、初稿・二稿・三稿と年代順に作品をあつめ、成り立っている。別に、「猗蘭子」三巻があり、享保二〇年(一七三五)ごろの作品で、治国平天下の道を説いている(『新訂寛政譜』若林前掲論文)。

 本多忠統は、享保一七年四月、伊勢神戸へ国替えになった。転封と同時に領地替えがあり、近江国高嶋・甲賀の所領は上知となり、伊勢の河曲郡で新領地を与えられた。河内領は陣屋の所在地たる西代村が収公されたが、その他の村落はそのままであった(表39)。また、吉宗隠退の直前、延享二年(一七四五)九月、五〇〇〇石の加増があり、城付の伊勢国鈴鹿・三重の両郡で新領地を得て、一万五〇〇〇石の大名となった。市域内の村落は、伏見堂・新家・廿山之内・板持之内・甲田之内・同新田が伊勢神戸藩領であり、明治初年の廃藩まで変わらなかった(表40)。

表39 伊勢神戸藩領知分布〔享保19年(1734)〕

(単位 石)

村落名 村高
伊勢 河曲郡 十日市場、矢田部、権現町、矢橋、寺家、西条、南長太、山辺、河田、高岡、北長太、柳 7998.277
12カ村
河内 錦部郡 原、日野、清水、流谷、鬼住、寺本、長野、伏見堂、新家、小深之内、廿山之内、板持之内、甲田 3203.3585
14カ村
合計 (11201.6325)
10000.0000

注)806.184石込高、195.4485新開改高、前掲資料による。

表40 伊勢神戸藩領知分布〔延享3年(1746)〕

(単位 石)

村落 村高
伊勢 河曲 十日市場、矢田部、権現町、矢橋、寺家、西条、南長太、山辺、河田、高岡、柳、木田、同所新田畑、十宮、国分、同所新田 9800.436
14カ村
鈴鹿 上田、同所新田畑、高宮、同所新田、汲河原、甲斐 1621.861
4カ村
三重 日永村之内、同所浜新田、同所新田 2310.517
1カ村
河内 錦部郡 原、日野、清水、流谷、鬼住、寺本、長野、伏見堂、新家、小深之内、廿山之内、板持之内、甲田之内、同新田 3203.3585
14カ村
合計 33カ村 15000.000

注)1563.937石込高、372.0355石新開改高、前掲資料による。

写真158 神戸城太鼓櫓 (三重県鈴鹿市)

 忠統のあとは、忠永(なが)・忠興(おき)・忠奝(ひろ)・忠升(たか)・忠廉(ゆき)・忠貫(つら)と相ついで藩主となった。歴代の藩主は江戸城の各城門の警備や、日光祭礼奉行代・大坂加番代などの役職をつとめた者が多く、神戸城に在城することは少なかった。藩主のなかには、和歌や俳諧、詩や絵画などに長じた趣味生活に生きた文人大名もみられた。忠廉のとき、天保の上知令で河内領がその対象となったが、上知令の中止で収公を免れた。最後の藩主は忠貫であり、その治世中に天誅組の変が起こった。河内領代官たる吉川治太夫が関係し、天誅組を援助したとの事で取調べをうけ、自害するといった一こまもあった。なお、忠貫は幕末多忙のとき、伊勢の山田奉行に就任している。

 藩の河内領を統治する役所は長野村にあったらしい。西代藩時代の陣屋は放棄された。旧高野街道に沿うた民家を利用していた。河内領を直接統治する藩役人は、寛保年間(一七四一~三)ごろ、河内代官植田庄兵衛、同吉年(よどし)久右衛門、大坂役喜田七郎右衛門、郷代官清水伝右衛門などの四人であった。文化七年(一八一〇)ごろの御家中分限帳では、河内代官植田四郎五郎、河内代官吉年作兵衛、大坂役山元喜兵衛などの名前が見える(『神戸地方平原郷士史』)。これらの人々によって、河内領の万般にわたる政治が実施されていた。また、吉年与右衛門は「河内郷目付并掛屋役」と史料に見えている。吉年、山元両家はいうまでもなく、在地の名家であり、現地出身の豪農らが、藩の飛地支配に登用されていたのであった。