淀藩石川氏・戸田氏の支配法令

521 ~ 525

諸藩領主の政治支配の中心となる基本的なものは、いうまでもなく、家臣団や藩領農村を対象とする諸法令である。淀藩石川氏時代のものとして、藩の豊庄太夫以下三人の名前で、藩領であった古市村庄屋にあてられた寛文九年(一六六九)六月の「定書」がある(『羽曳野市史』五)。古市村に限らず、石川郡の淀藩領村々にも広く下付されたものであろう。その内容は、つぎの通りである。

(1) 武家のなかで、年寄衆・奉行仲間・代官・蔵方役人や米見の足軽といった者に、贈答品を送ることを禁止。

(2) 鷹匠や飼指(えさし)、鳥見らが村方に対し何かと無理をいい、接待を強要することや、領主側の証文なくて宿泊は厳禁。

(3) 武家方役人の現地出張の際、食事などは有合せの野菜などで料理すること。

(4) 村方からの送迎の人馬は、領主側の証文なき場合は不必要。

(5) 村役人・百姓たちが淀の役所へ参上のとき、用件終了後、すぐ帰村のこと。

(6) 米見の足軽は年貢米納入の終了次第、在村での滞在は厳禁。

(7) 在地での売買物は、武家諸役人らへ売却の値段はすべて現金売買、掛売などでは取扱わぬこと。

 この法令は、藩法令の基本ともいうべき農村・農民に対しての内容を含んだ法令ではない。また家臣団一般に対する心得や遵守すべき条項をもった、家中法度的なものではない。そこでは、武家が在村を巡回したり、所用で在地に出張したとき、在地農民との接触の場合、武家・家中に対する心得書といったものを、その主たる内容とする。武家諸役人の在村へ出向のときの取締や心得と同時に、農民側からの民政関係者への礼物や接待を禁止する条項が明記されている。このような行為の取締は、淀藩だけの事例ではなく、一般的にみられることは、たとえば、後筆するように、膳所藩本多氏の場合、本多俊次の藩内農村への「定書」にもみられる条項と共通するものであった。

 正徳元年(一七一一)二月、備中松山に転封した石川総慶に代わり、淀城に入城したのは松平(戸田)丹波守光煕(みつひろ)であった。同年六月知行地に布達した「條々」が市域に残されており(北大伴西村家文書)、左に記すとおりである。

写真159 淀城跡 (京都市伏見区)

  條々

一 従公儀前々被 仰出御法度之趣堅可相守事如左

一 切死(支)丹宗門御穿鑿之事

一 新地之寺社御停止之事

一 人売買御制禁止之事

一 毒薬似せ薬売買御制禁之事

一 不可在<ママ>徒黨催一揆事

一 捨子捨馬等御制禁之事

一 百姓衣類并家作不可致結構事

一 隠田畑并山野藪林等不可致私之引得事

右之数カ条者其大法也、此外委細ニ可相守也

 九カ条からなるが、その内容は、幕府からの諸法令の厳守、キリスト教信者への探索、新しく寺院・神社の建立の禁止、人身売買の禁止、毒薬などの売買の制禁や一揆徒党の禁、捨子捨馬の厳禁、農民の衣服・住居への統制、隠田畑や山林などの勝手な利得の禁止などの条項が含まれている。幕藩制社会の前期からのさまざまの諸規制や、禁令などがその中心的項目であるが、時代の動向の一側面をあらわしたものとして、捨子・捨馬の禁制がある。綱吉将軍は貞享四年(一六八七)から彼の死にいたる宝永六年(一七〇九)まで、さまざまの生き物について、その殺害を禁止している。いわゆる生類憐みの令が頻発されている時期であって、その時代の関連の禁令であったと思われる。

 さらに付則として「此外委細可守者也」とあるように、農村生活の各方面にわたり、藩領主側の規制や禁令がみられる。その内容につき略述すると、つぎのとおりである。

(1) 孝の道の履行と農事への精励。

(2) 喧嘩口論の禁止。

(3) 農民の分相応な風俗冠婚葬祭への規制。

(4) 博奕や不相応な遊覧旅行の禁止。

(5) 武家・家中諸役人などへ無礼非儀な行為の禁止。

(6) 諸役人への賄賂などの禁止。

(7) 郡代などの指令なくして人馬使用は禁止。

(8) 勝手に草場・山林・藪などの開墾の禁止。

(9) 往還道や田畑への通い道などの勝手な変更は厳禁。

(10) 田畑売買のときの留意事項。

(11) 免割のとき公平な割付の実施。

(12) 家中と詐称する人物を吟味し注進のこと。

    遠方の親戚が宿泊の時は庄屋に断ること。

(13) 浪人など無業者や遊女など宿泊禁止。

(14) 身柄引請の証人をむやみに引請することの禁止。

(15) 庄屋など等の役儀は厳守する。

(16) 他領より転入者は郡代・宗門奉行へ連絡・処置のこと。

(17) 他所奉公は必ず郡代に断わり許可を受けること。

 以上、一七カ条と多方面にわたりこまかく日常生活の諸分野にいたるまで、規定されている。第一条の農事励行の規程に「常に孝道を守り」と孝の観念が強調されているのは、綱吉~白石とつづく幕府政権の上での、儒学にもとづく、民衆の教化政策の現われと考えてよい。それは、農村社会生活の日常の規範として、前代からくりかえし強調して、守ることが規定されている。他領出身者や浪人などへの警戒や、逆に他領への出奉公などにつき細かい規定があることは、治安維持的な側面をもつ規定として、幕初からみられるところである。既設の交通路線の変更や新道の付設などの規定は、目新しいといえよう。