松平乗邑の領国支配

525 ~ 527

前述したように、松平光煕をついだ光慈(みつちか)は、亨保二年(一七一七)一一月、志摩国鳥羽へ転封になり、伊勢国亀山から松平乗邑が入封し淀藩主となり、摂・河・江三国で約六万石を領有した。入封の翌三年八月、領内へ触書を流している。すなわち、

  條々

一 公儀御法度之趣堅相守へき事

一 御伝馬之儀者不及謂、旅人の人馬船等昼夜によらす無滞差出すへき事

   附往還の道橋常々念を入、損候所は早速可令修補事

一 宗旨之儀前々之通念を入可相改之事

一 主人に忠を盡し親に孝を致すへし、

 郷町にても人の存知候忠の者孝行之者有之は可申出事

一 他所人は不及謂、諸奉公人に対し慮外仕間敷候、尤淀町中馬に乗るべからさる事

一 淀領は他領悉入相之事候条、常々万端相慎隣郷むつましくいたし、出入無之事に仕へき事

一 火之用心常々不可油断、風立候節は番人は不及謂、役人繁々見廻り稠敷(きびしく)可申付候、若出入之節は早速火消道具持集り精を入消し可申事

一 田畑少茂荒し申間敷候、若不作の所有之は、庄屋肝煎遂相談作付いたすへし、用水并堤川除井関等之普請、前々之通油断仕間敷事

   附山林は不及謂、居屋敷の竹林まても伐荒し申間敷候、無據入用にて伐取候ハゝ役人江相届可仕差図事

一 田畑落地有之者、改出し次第早速可申出、若隠し置候ハゝ可為重科、常々農業油断なく可相勤候、惣して百姓に不似合仕間敷候、尤博奕其の外賭之諸勝負堅停止之事

一 喧嘩口論堅可相慎、荷担之族者其科本人より重かるへし、若し人をあやめ候者有之者、不立退様に稠しく番を附置、早々可仕注進事

一 諸役人并軽き役人までも、賄賂一切仕間敷候、若相背候ハゝ可為不届事

右條々堅可相守之、若於令違背者急度可申付者也

  享保三年八月三日

 長い引用文となったが、松平丹波守光煕のときと比較して、同じ性格の条項もあれば、目新しい条項もある。幕藩体制下の一般的な農村村落社会への触書として、公儀からの法度の厳守やキリスト教の厳禁、村内での喧嘩口論の禁止、火の用心への配慮のほか、諸役人への贈賄の禁止など、重ねて強調されている。主人への忠と、親への孝とを強調し郷村内での忠・孝者の表彰のことを記しているのは、民衆教化の線に沿うものであろう。目新しい条項として、淀領農村は他領主との入組支配の場合が多いので、不作法な行為から他領との出入り一件の発生を防止しようと、配慮している条項がある(北大伴西村家文書)。

 乗邑は八代将軍吉宗の信任が厚く、享保八年四月幕閣に列し、五月には下総佐倉藩主稲葉正知と入れ替りに佐倉に入封し、六万石を領有した。老中として二二年間その任にあり、享保改革で農政上活躍したことは前にもふれたところである。しかし、後世の彼の活躍にもかかわらず、藩領の農村政策に直接関連する条項は少なく、わずか二カ条しかない。田畑の荒廃を禁じ、用水工事の励行を命じ、山林や竹木の勝手な伐採を禁止し、村内の隠し田畑の存在、新田畑の届出を命じた条項のみである(同上史料)。老中という要職にあり、延享期を中心に未曽有の年貢増徴策を推進したことは著名な事実であるが、未だこのときは、自己の藩領でも、同様に高率の年貢収奪をうたった条項は全く見当たらない。