既述したように、貞長時代の笠間藩牧野家の上方領は、どのような役職により統治されていたか。これにつき略述してみたい。安永九年(一七八〇)一一月「地方御役人名前役掛覚(大坂)」なる史料がある(常陸笠間藩牧野家文書(茨城県立歴史館探訪))上方西国領を統治する藩の地方諸役人の名前と、その職名および職務につき記されている。大坂の役宅には郡奉行が三人駐在し、犬塚佐右衛門・喜多川儀四郎・中村佐五郎であり、その職務はつぎのとおりである。①月番として一人ずつ順番に勤務。②一人が上屋敷に駐在。③寺社や村方からの訴願を処理。④一カ月のうち六の日が御用日で、各種の訴訟を審理。⑤変死・急死・欠落や人別外れなどの届で連絡のため町奉行所へ出頭。⑥寺社の届けや年始・八朔のとき堺奉行所へ参上。⑦国役普請のとき川方役所へ参上。⑧用悪水訴訟一件のとき、担当者一人を定め万事相談。⑨検見のとき大通出役の職務を担当。以上のように訴願の受理・審査、国役普請・用悪水一件の打合せ、検見のとき現地廻村など、地方民政の重要事項の総括の役職であった。
そのもとに代官が三人あり、河州・泉州担当の田中儀助、河州担当の津久井直蔵、播州担当の豊田丈右衛門がそれで、上方領の国ごとに分担し、領知の村数の多い河内は複数の二人が担当した。彼らの職務については、つぎのとおりである。①日常の会計出入りの記録や村方からの訴願の受理と処理。②六の日の御用日は必ず出勤。③検見・五人組改・井堰川除見分のとき立ち合う。④紀州侯が参勤通行のとき、道筋への出役警衛など。この紀州侯の参勤通行は、紀州街道を利用するので、泉州領との関係上、泉州代官が関与したのであろう。なお、代官と思われる犬塚十次郎は、とくに、①日常の諸帳面の整理や勘定を担当、②検見のほか、免状や諸帳面を吟味調査、③公用方で割当て諸勘定のとき出張勤務、④御番所の加役を受持、などの特別の任務をもっていた。また、代官の江尻領左衛門と武藤甚左衛門の二人は、一人ずつ交替で、遠隔地美作国大庭郡の農村管理、他の一人は蔵方を担当した。
ほかに会計担当の補助として御勘定が三人あり、甲斐茂八・武藤富蔵・高柳源蔵であとの二人は手代を兼ねていた。その職務はつぎのとおりである。①日常の諸帳面・諸勘定の実務を取り扱う。②検見や河川水利・荒地見分のとき現地出張。③免状を用意し諸帳面勘定改めの実施。④三人の内一人は交替して作州領在勤。⑤紀州侯への上使通行のとき道筋に出張勤務。⑥寺社の建替えや他領との入組普請場への臨検。⑦村々からの収納米銀につき吟味調査。⑧公用方諸帳面の勘定検査のとき、加役として勤務。⑨その時の諸情勢で徒士目付として勤務。以上のように、どちらかというと、具体的な実務担当の内容である。これら以外に手代が四人在勤し、郡奉行に二人、代官に二人それぞれ付設され、代官勘定役の仕事の補佐的実務を担当した。彼ら諸役人は、いずれも、平日午前一〇時ごろから午後三時ごろまで在勤し、業務多忙のときは弁当持参で、夜半まで及ぶ場合もあったという。
なお、上述した上方支配諸役中の代官の一人に武藤甚左衛門がある。彼は、貞長の大坂城代就任とともに上方領役所に引越し、安永八年(一七七九)代官役に就任し作州在番をつとめた。天明元年(一七八一)に大坂蔵屋敷詰となり、上方領が収公され奥州三郡の旧領に戻ると、奥州に引越し支配役に就任した。彼の名を記した史料に「安永八年八月 河内・和泉・播磨三カ国領地高反別帳」がある(常陸笠間藩牧野家中武藤家文書)。上方領三カ国たる河内・和泉・播磨にとどまらず、美作国大庭郡の領地の明細も記されている。その内容は所領の高反別にとどまらず、検見・年貢算定・石代納・年貢米輸送などにわたり、上方領の貢租徴収にかける藩の関係諸役人たちの、領地統治の方向が窺えるものといえよう。