笠間藩城付地・上方領の貢租収入

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笠間藩の牧野貞長は、幕閣の重職を歴任し天明期から寛政期にかけ活躍した。藩主としての在任期間は、宝暦・明和・安永・天明・寛政の諸期に及び、とくに老中在任期は天明期であり、藩財政の窮迫、家中の窮乏や農村人口の減少、離村の増加など藩政動揺の時期でもあった。この間、藩の財政状況の悪化を知る史料として、笠間牧野家常陸国五万石の城付地の収納米を、入封直後の寛延元年(一七四八)から寛政元年(一七八九)までについて、その推移を示す表41からあとづけよう。

表41 笠間藩常陸領(5万石)収納
茨城郡領 真壁郡領
両分・文 両分・文 両分・文
寛延元(1748) 9539.497 3706.0.47 4358.649 1841.2.210 13898.146 5547.2.257
宝暦4(1754) 9956.620 3706.0.60 4694.702 1841.2.83 14651.322 5547.2.143
寛政元(1789) 6710.853 3158.3.392 4331.314 1036.0.869 11042.167 4194.3.1261
寛政2(1790) 7192.165 3121.2.380

注)『茨城県史』近世編457ページより

 表41からも知られるとおり、寛延元年に比して寛政元年は、収納米で約二九〇〇石、収納金で約一四〇〇両の減収となっている。笠間藩の年貢収納は、明和~安永~天明期と大きく減少し、ことに天明四年の飢饉(ききん)が急激な減少を招くもとになった。また、藩主貞長は、安永六年、天明元年と大坂城代、京都所司代に就任している関係上、この時期の大坂・京都における経費は、年に二万三四〇〇両前後が必要で、そのため、天明六年には九七七〇両、翌七年一万二四〇〇両の不足を生じているとされている(『茨城県史』近世編)。

 このような年貢収納の大きな減少については、笠間藩の常陸城付地を含め、北関東の農村地帯が、人口の激減や手余り地の増加などで、農村荒廃が顕著に進んだからであるとされている。笠間藩領の一農村たる真壁郡本木村を研究した長谷川伸三の「常陸国笠間藩領における農村荒廃とその克服」によると、つぎのとおりである。本木村の農村構造の変化を、(イ)延享~寛政期、(ロ)寛政~天保期、(ハ)天保~明治初年と三つの時期にわけ分析し、最後に上層農民の存在形態に言及している。ここでの第一段階としての時期は、貞長の治世とほぼ一致する。そこには、明和九年の村落階層を延享二年のそれと比較して、一〇石以上はほとんど変化がなく、一〇石未満、ことに一~五石層が大幅に減少していくことを指摘し、「下層の没落・離村」が進行してきたことを示しているとする。そして、この時期の潰百姓は、零細な持高の水呑層の多くが離村した結果であり、彼らは、農業だけでは再生産が不可能で、ついに一家離村の途をたどり、近在の真壁町やその周辺の農間商い、奉公などの労働に吸収されてゆき、離村人口を増加させたと結論づけた(『近世農村構造の史的分析』)。こうして、潰百姓の急激な増大は農村の耕地の大規模な荒廃を招き、加うるに天明の飢饉が続発し、ますます城付地の貢租収入の激減を招く結果となったのである。

 城付地のこのような情勢のとき、上方領はどうであったか。表42は寛政元年における上方領三万石の年貢収納の合計である。寛政元年酉一二月の記年があり、河内・和泉・播磨三カ国の上方領の年貢収入の内訳一覧である。上方領三万石の所領から本途見取などの米納分が、一万六六四二石余、銀納分が三七八貫余、ほかに小物成夫銀口銀が三貫余、夫米の銀納分が五貫余、夫役銀が二八貫余となっている。同年の常陸領五万石の収納米が一万一〇四二石余、金納分金四一九四両余と比較すると、藩にとり上方領三万石の貢租収納の占める割合が大きいことがわかる。

表42 笠間藩上方領(3万石)収納〔寛政元年(1789)〕