上方飛地領をもつ笠間藩のごとき藩が、上方領からの収入年貢などを担保として、上方京坂豪商から財政赤字をとりつくろうために、金子借用が行われていることは、すでに周知の事実である。貞長は安永六年から、大坂城代・京都所司代・勝手掛老中などと要職を歴任するうちに、上方の豪商などからの借銀が容易になり、巨大な借金高ともなった。ところがこれらの借財も結局は一時凌ぎのものであり、逆に累積した借用銀は藩財政を圧迫し、藩はその返済方に苦慮することになった。安永九年子一一月の年記のある「元〆方、御中間頭・御蔵方御普請方勤方記(大坂)」なる史料がある(常陸笠間藩牧野家文書)。藩の大坂役所の諸役人が、銀主たる町人やその手代らとの対応・交渉に関する関係の記事がみられる。「一銀主応対并銀主廻り度〻相勤候」とか「一御借用証文并引合諸書物自身相認候儀多御座候」などと記されており、それらが、彼らの重要な職務でもあった。これらの勤書のなかに、大坂三郷の市中の豪商の銀主たちとその手代の名前が書かれ、そのほか、市中の豪商だけではなく、村方銀主として藩の上方領三カ国の在村の富農層の名前が記されている。市中の銀主の方は、大坂の鴻池・食野・加島屋・平野屋・大庭屋・炭屋・山本屋などをはじめ広くその手代の名前まであげられており、町人銀主四九軒、手代一六人の多数に達している。藩領村落の銀主名のなかには、河内領であるが、河州山田村伊兵衛・同長次兵衛・同池田中村半兵衛・同富田林村長左衛門・同徳兵衛・同古市村次郎兵衛などの名前がみられ、すべて一六軒に達する。藩の借財先として、富田林村の杉山家、仲村家があてられていたのである。まさに財政困窮に対する借財先として、都市居住の豪商だけではなく、在村の豪農層にまでその対象を拡げているのである。
寛政二年(一七九〇)二月、藩主貞長は老中を退任し、上方領三万石の上知のとき、上方領に賦課した上納金の決済や、豪商たちへの巨額な借財の返金に対して、藩主たちの困惑は一層のたかまりをみせることになる。こうした経緯はたとえば、「寛政二年、上方領引替等困窮ニ付相談書」などに述べられている(常陸笠間藩牧野家文書)。その一端を紹介したい。牧野貞長が大坂城代勤務中、河州領分村々の普請銀の手当として、町奉行所貸付銀を村方質地を抵当にして借用した。銀二八四貫五〇〇匁(およそ金五一〇〇両余)で、そのうち、二四八貫八五〇匁は、去る酉(寛政元)年から向こう一三カ年賦(享和元まで)で返納の予定であったところ、近年領分村々の凶作のため、臨時の経費が必要となり、去年暮れに上方領分村々に、昨年暮から本年六月まで、村別に出銀を賦課し、その銀は元利で銀三二八貫九〇〇匁余(金五九〇〇両)であった。しかし、上方領が上知になったので、質地をそのままで上方領郷村の引渡しはできない。村割の出銀のことは、本年の収納を引き当てて差し引くので、村方からの貢租収納はない。そのうえ、これまでは上方領の存在があるから、大坂御蔵元からの出銀もできたが、奥州へ領知替えになると、年貢収納高一万五〇〇〇俵も減少の予定で余計にやりくりがつかない。しかし、今回はなんとかやりくりして郷村引渡しは済ませた。別に上方在勤のときの拝借金は領分の凶作のため、返納すべき二七〇〇両が返済不納となり、大変に困惑している。本当にこのままでは、本年の始めから暮らし方の立行きの方策もなく途方に暮れている。牧野家全体の安危にもかかる緊急事でもあるので、いたたまれず、ご相談申し上げる次第であると述べられている。
また、一方では、藩領の河州農村からは、寛政二年、藩主が上方領を上知するに当たり、記述したように、先納銀と町奉行所借銀との両方の返済は至難であるため、農民から差入れた村々の質地はそのままとし、大坂の豪商や蔵元から村々への借銀形式に証文を書き直し、事をすませようとした。以上に対して、村々の庄屋、年寄らは納得せず、上知に際しては質地を除いてほしいことを強く願い、藩からいかに説諭されても農民側一同は得心できぬと申し述べているひとこまがあった(『羽曳野市史』五)。
また、領知替えに伴なう勝手方取締りについては、藩主貞長は、藩当局の者は万事につき、できるだけの節約を多くの家中へ周知徹底させる必要があろうと述べ、諸事省略・費用削減、きびしい倹約を強調し、今後の暮らし向きの相続方を相談すべきであるといっている。そして、藩の銀主であり大坂の町人である山家屋・近江屋・炭屋・大庭屋にも、重ねて金銭の一時立替えなどを願っている。上方領の上知の一件が、藩財政に与える問題の重要性を物語るといえる。