水野忠邦は浜松への転封以後、記述のように、文政八年(一八二五)大坂城代に就任し、翌九年一月に摂河で一万五〇〇〇石余が与えられ、また京都所司代に昇進し、一〇年八月には河内の渋川・石川両郡で替地が与えられた。その時、以前からの領地のあった南大伴村とともに、北大伴村が忠邦の領地に編入されたとき、浜松藩の郡奉行・代官らが北大伴村の村役人一同を通じ、村方に触れ流した条目書と、条目添書および口達書がある(北大伴三島家文書)。それらにつき略述したい。それは近世封建農村社会生活の各方面にわたる農民心得書といえる内容をもち、五人組帳の前書などと頗る類似する。幕藩領主の目に映じた農民の理想像ともいえる箇条書の集大成といってよい。以下、煩をいとわず、その内容を簡約してみよう。
①幕府法令の厳守、②キリスト教信者の密告奨励、③公用伝馬・人足の使用は御定賃銭以外に増銭を禁止、④毒薬の売買の禁止、⑤街道筋通過の大名衆の家中などへの応接心得、⑥郡奉行の申達書の履行、⑦人身売買の禁止、⑧博奕諸勝負の禁止、⑨在村での盗賊悪党人などの発見申出の奨励、⑩街道筋の死人・病者などの届出、⑪喧嘩口論の禁止その荷担者を制止、⑫旅行者の旅宿への忘れ物について、⑬旅行者の宿泊の身元保証と不審者の届出、⑭火の用心の厳守、⑮押買や狼藉者への処置、⑯格外の廉価物の購入禁止、⑰田畑永代売買の禁止や隠田などの届出のこと、⑱田畑屋敷など売買に際し保証人や村役人の加判が必要、⑲荒地の開墾などの届出、⑳田畑の荒廃の禁止、潰百姓跡地の取戻しについて、21山野・田畑・屋敷などの境界を確認、訴訟の禁止、22検見は村役人立会で実施、23田畑への潅水の順番は先規を厳守し、水路の破損は早く修復、24山林竹林など伐採禁止、25父母への「孝」の強調と耕作放棄の禁止、26裁決済みの公事一件への再度申出の禁止、27他所からの逃亡者を留置し郡奉行・代官へ報告、28他領分よりの来住者は、調査の上郡奉行・代官へ連絡、29他領分への転出のとき郡奉行・代官へ届出、他領からの養子縁組者に対し、水野領の田畑や山林を与えることを禁止、30郷中の諸職人の他出のとき日数を定め、奉行所・代官へ報告、31郷中の街道筋の監視や清掃など管理に留意、32神事祭礼年忌婚礼など分不相応な振舞は厳禁、33郡奉行代官の行為が我侭(わがまま)で不公平のとき、申し出よ。
以上の条目はすべて三三カ条にわたるが、詳細に農民の日常生活の諸行為を規制し、万事につき禁止事項をこまかく示している。
これらの条項に加え、「添書」として、郡奉行から十カ条の追加が触れ流されている。すなわち、①水野家の条目を写し置き、必ず厳守、②新田畑の開発や開添えなど必ず代官に届ける、③農事耕作に精励し年貢皆済のこと、④山林立木など許可なくして伐採を禁止、⑤宗門帳を念入りに調進し、村人口の出入を確認、寺社など精細に記入、⑤免割や村出入用の割賦は村役人が惣百姓立会い公平に実施、⑦公事訴訟の願書は村役人ら充分に吟味し百姓の直訴は厳禁、⑧諸役人が郷村へ出張のとき、接待心得方について、⑨諸役人、その妻子などへ送物の禁止、⑩百姓、召使等の取調べ糺明のとき、不似合いの取斗いは禁止、などの事柄である。
具体的な条項がつけ加えられ、免割にあたっての心得や農民の直訴の厳禁など、新しいものがみられる。
そのうえ、同日にさらに郡奉行の「御領分口達」が出されている。その内容は、①年貢は一二月一五日限りの完納を強調、②各自の耕作する稲苗の充分の吟味、③米拵・俵拵などの充分な吟味・調査、④検見や宗門改等で郷中へ出張するとき、一汁一菜でもてなすこと、⑤領主からの諸種のきまりは厳守、万一、心得違いで村方に不法な要求等あれば役所へ申し出よ、⑥武家に対する諸種の賄賂は厳禁、⑦用達や郷宿の者の心得違いは早速に申し出ること、等々の条項がある(北大伴三嶋家文書)。
以上で浜松藩水野氏の上方領統治の諸法令や布達類の内容は、まさに、「法度政治」の名にふさわしく、農村生活の各方面につき具体的な事例を中心に、規制を加えた禁令であり、農民心得書ともいうべき内容が、強調されていることを見てきた。領主の統治方針のもとに農村生活を統制し、つねに、農民をして封建貢租を完納し、領主の課役を負担させる方向であったことは、他の諸領主と相違していない。新しく所領となった摂・河の上方領が浜松藩水野氏にとっても、大きな財源であったのである。