浜松藩水野氏は摂河両域の村々に対し、領内に対する借銀の形態で、さまざまの負担を強要した。
文政一三年(一八三〇)閏三月、既述したように大坂周辺の摂河地域の領地が収公され、浜松城近在の遠州領に戻された。当然、笠間藩牧野氏の場合と同様に、飛地領に残した借銀の処理が問題となった。それは、つぎの四つの事項であった。すなわち、①摂河村々が藩のため調達した先納銀二五九貫一七九匁九分五厘の返済の問題、②文政一一年に発足した五貫目掛け歓楽講銀の残額一三五貫の返済の問題、③摂河村々の身元相応のものに課された御用銀ならびに、御買米代銀指加銀(御用銀)の返済の問題、④村々が大坂・堺の奉行所その他から借銀して、浜松藩に提供していたおよそ五〇〇貫にものぼる調達銀の返済の問題などの四件であった(『尼崎市史』二)。そのうち、最初の一件を中心に説明しよう。
先納銀というのは、藩の要請に応えて、摂河の領分村々に割当て上納されたのであり、文政一三年には、二五九貫一七九匁九分九厘と、利息が二五貫二六八匁三分、計二八四貫四四八匁二分九厘を数えた。文政一三年正月の協定では一〇カ年年賦で、同年末から毎年三三貫八〇〇匁ずつ返済し、不足分は村の負担にするときめられた。ところが、同年三月、摂河領地村々が上知され、遠州旧領に戻ったので、同年四月に摂河藩領村々が浜松藩郡方役所に願書を提出し、その結果は、六月に藩はつぎのような返済方法をとることを約束した。摂河領地の引渡し以前、先納銀の返済は不可能なので、さきに定めた一〇カ年賦返済の方法を確実に実行するため、その年限中水野氏が近江で領有している一万石の領地から、上納される年貢の代銀を扱っている大津の掛屋古望仁兵衛に返済を請け負わせ、摂河旧領分へ年々銀三三貫八〇〇匁を支払うことにしたい、と約定した。そのため、新領主の一人たる小堀代官所の役人四人の連印で、摂河領分村々の出銀者や村役人にあて、二通の書付を渡し、そのうちの高井田村の庄屋から、北大伴・南大伴両村の村役人にも、二通の本紙を預かっている旨差し出している(北大伴西村家文書、『尼崎市史』二・五)。ほかに、②の歓楽講銀の割り戻しの件や、③の村々の納めた御用銀の処理、④村の名前での、大坂町奉行所・堺町奉行所の貸付銀の返済については、前者二件の処理の問題は不明であり、恐らく、返済は不履行になったらしい(北島正元『水野忠邦』、『尼崎市史』二)。
以上のように、浜松藩水野氏も藩財政の窮乏から飛地村々に多大の負担をかけ、莫大な借銀を賦課してその返済に苦しみ、藩領在地に大きな爪痕を残すことになったのである。