前述したように、大坂城代・京都所司代・老中と幕府の要職を歴任した宮津藩本庄伯耆守宗発(むねあきら)は、文政一〇年(一八二七)一〇月、市域内で喜志村をはじめ五カ村を領有した。ところが、天保二年(一八三一)一一月、喜志村一八二六・六九四石は分郷村となり、本庄氏宮津藩領一一三二・六一五石と、小堀代官領六九四・〇七九石とに分かれた。喜志村は、大深(おぶけ)・川面(かわづら)・平(ひら)・桜井・宮の小字から成り立っていたが、本庄宮津藩領は大深・川面・平の三カ村と宮村の一部を領有し、小堀代官領は桜井と宮村の残りで構成されることになった(『富田林市史研究紀要』四)。それまで、単一の領主により統治されていた喜志村が、複数の支配領主で分割され、相給村落となった。その時、喜志村で取りきめた議定書がある。以下、その内容につき略述としたい(喜志山本家文書)。
(1) 百姓の領主別への分属分けは、株高を考え組み合わせ、くじ取で決定すること。
(2) 村内のすべての田畑の位分けや、段免・川成・荒・新田・薮地までも両領主別に分割するが、分郷の結果それ以前と比較して、所持石高に増減があるときは、五石以上の持高百姓の場合、田畑名寄帳の帳面を切替えて渡し、差引すること。谷田・段免・川成・荒・新田・薮地などについては、五石以下の場合も、同様に処理すること。
(3) 年貢の免割や米銀を領主へ納めるとき、領主別の分郷ごとに別々に実施すること。
(4) 山年貢・小物成・諸運上の納入も、領主の分郷高に応じ提出すること。
(5) 郷蔵敷地高は、両分郷の高に比例して切渡すこと。
(6) 見取場三升九合の出米高は、両分郷地の夫代勘定の節加えて計算のこと。
(7) 惣作地は両分郷の高に応じ割賦して年貢を納入すること。その小作年貢は両郷立会い夫代勘定に加え計算のこと。
(8) 領主への賦役上の諸入用は両郷の高に応じ賦課すること。喜志村全体への賦課された場合には、以前からの慣行どおりにする。
(9) 郷年番や支配年番は以前の通り勤務する。
(10) 領主が来村のとき道・橋などを修理し、人足はその領主に所属する分郷から差出すこと。竹木などは先規通り井路司から提供すること。
河川の橋、渡船は両分郷の村役人が立会うこと。
(11) 分郷となったので高札場設置の補助として、銀二〇〇匁ほど惣高から出銀のこと。これまでの高札場は今までどおり掛札をおき使用し、今後は双方とも修復維持のこと。
(12) 喜志村全体に賦課される普請は、潅漑水路担当の両人が現場に立会い実施のこと。大破のとき村役人・頭百姓が立会い実施し、普請用の竹木類は、井路担当人が管理し無断で竹林を使わぬこと。
(13) 氏神関係諸経費は、村ごと割高で賦課、喜志村両分郷は宗門帳の家別に割賦すること。
(14) 変死・病死者の諸入用高は惣高割にする。跡始末は近隣で相談し処置すること。
(15) 用水は井路司が担当し分郷から二人勤務、役料は先規どおりのこと。
なお、村の小入用は以前からと同様の方法で割賦し、両分郷の村役人が役儀に準じ違背せぬよう、後年に訴訟がましいことがおこらぬよう、もし今後に同一領主の所領となれば、以前のように万端にわたり実行することなどを申し合わせている。