下館藩の地方法令と飛地

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常陸下館藩石川氏には、すでに伊勢神戸藩の時から、河内領として約一万石の飛地があったことは、既述したとおりである。地方統治を対象として出された法令も比較的に多い。河内領だけでなく、広く領内全体に公布されたものであるが、時代の動向や藩政と関連して、内容がどう変わるかを中心としながら略述したい。

 伊勢神戸藩のとき石川総良が天和二年(一六八二)五月、定書を広く領内に発布している。七カ条よりなり、後世の法令に比し内容も簡単である(『羽曳野市史』五)。各条の要旨はつぎのごとくである。

(1) 忠孝を奨励し、夫婦兄弟親類まで仲むつまじく暮らせ。

(2) 住居・衣服・飲食をはじめ万事倹約を厳守。

(3) 自分の家の家業に精励せよ。

(4) 盗賊悪党などを密告せよ。褒賞を与える。博奕など厳禁。

(5) 喧嘩口論を禁止。負傷者を隠すこと厳禁。

(6) 死罪執行のとき該当者以外は来住を禁止。

(7) 人身売買は厳止。年季奉公は一〇カ年を限度とし、長年期は禁止。

 以上の条項のうち、(1)にある忠孝の奨励や夫婦間などの家族間の相互親睦を説くなどは、綱吉将軍の儒学による民衆教化という文教の目標と合致する。また、(7)の人身売買の禁や、多年季奉公の禁止、盗賊悪党の密告奨励などは、近世前期の幕法などと類似する。しかし、(2)では万事にわたり倹約の必要性を説くが、具体的な内容が少ない。

写真164 下館城跡 (茨城県下館市)

 享保一七年三月、常陸下館へ国替えとなり、神戸藩から下館藩へと変わったが、石川総陽(ふさはる)は元文元年(一七三六)八月、倹約条目として五カ条を触れ流した。内容がより具体的に示され、詳細である。それは

(1) 幕府からの諸法令・達や大坂の藩役所からの用向きを大切につとめ、博奕などは禁止。農事に精励し、年貢皆済以前に諸勧進に米穀などの寄進は厳禁。

(2) 村内の諸入用の節減につとめ、向こう七カ年間、厳重に倹約を厳守。

(3) 婚礼・養子取りなど各自の分限に応じ、身分不相応にせぬこと。

(4) 藩領は他領と入り組んでおり、諸事乱暴不作法なること禁止。

(5) 村々への領主など巡見に際しは、一汁一菜~二菜を旨とし、酒類の接待は禁止。

 以前の条項に対し、村方の諸経費の倹約の内容を具体的に示し、向こう七カ年間の厳重な倹約を指示し、村方廻村への巡見使への接待を規定して婚礼や儀式の簡略化を述べている。なお、入組の相給村落の多い下館藩飛地領では、他領主との紛争を防ぎ我ままの行為をいましめている(『羽曳野市史』五)。

 同じ元文元年八月付けで、飛地役所の所在地たる白木村にあてられた法令は、児玉文左衛門・黒杉伊助(政以の父)・大宿嘉右衛門の三人の名前で出され、内容はより詳細である。文書名のタイトルも「郷中倹約明細定書」の名称どおり、村方に対する倹約の内容につき、具体的に取り極めている。婚礼や養子取遣わしの際の振舞や接待については、婚礼の諸道具類から始まり、祝儀の取り交わし、祝宴の際の食事などまで、こまかくその内容を取り極めている。死去に際しての葬儀、野辺送りの儀式、満中陰や年忌などの仏事や、子供の誕生、盆行事、神事祭礼など、慶弔行事の各方面まで厳しい倹約の遵守を説いている。また、大坂商人からの借銀のときや平素は村中に於ても、今後、無駄遣いを禁止し、寺院への寄進を禁じ、本山からの勧進には猥りに応じない。そして、年貢米の米納のときの諸心得を記し、郷中からの援助費を申し出ても、藩役所とし受け付けられぬという条項の記載は厳しい藩財政の事情を反映しているというべきである(某家文書筆写史料)。

写真165 下館藩白木代官黒杉政以夫婦墓 (河南町南加納墓地)

 一八世紀後半史料から一九世紀にかけ、藩財政の困窮に伴う藩体制の動揺が顕著になってきた。文化五年(一八〇八)に就封した石川総承(ふさつぐ)は、文化一三年一〇月「郷中江相渡候覚書」として八カ条からなる法令を触れ流している(某家文書筆写史料)。それは「御改革被 仰出候間御領内之者急度相守可申………」とあるように、藩体制の動揺をのりきる政治改革の一環として、実施されたものであろう。八カ条の内容は必ずしも倹約令を対象としていないが、要旨はつぎのとおりである。

(1) 大庄屋の出坂費用・日役銭の節減をめざして、訴願書の提出のときは一日七匁、大坂滞在中は五匁とする。

(2) 庄屋・年寄や一般農民のときは、上記に準じ減少させる。

(3) 役人らが村方の用務で出坂のとき、役所から定式で渡す費用を記しておくので、郷夫代金から差し出すこと。

(4) 役所の御用日は朝五ツ時(午前九時)から九ツ時(午前一二時)まで、公事訴訟を受け付ける。もし遅延のときは、つぎの御用日となる。大庄屋の取次ぎ添書がない願書は受理しない。

(5) 博奕や賭の諸勝負は厳禁。違反のとき村役人と当人を処罰する。

(6) 先年からの村々への倹約書につき、一カ年に両三回ずつ、村役人から小前一同に読み聞かせること。

(7) 領分村々は一カ村ごとに、田地反畝の持主とその小作人の名前を、木片か竹片に記入し立てておくこと。村役人が点検し、藩役人の廻村のとき必ず書き記すこと。

(8) 組の者が村々を廻村し、庄屋年寄へ手紙を渡すので、御用日に差し出すこと。

 以上の要約にあるように、直接に倹約令と関わりあるのは第六条である。しかし第一・二条ともに在地村役人層の大坂役所などへの、出張費の削減をねらい、小前層一般も準拠させようとした。また、一村ごとに田畑の持主・小作者を記入させ、木片・竹片に書き明示させたのは、自作人と小作人とを掌握して村落の実態を把握せんとする方向であったと考えられる。

 天保期に入りさらに藩の財政は悪化して、藩の借財は新旧あわせて三万五〇〇〇両~九〇〇〇両の負債があったといわれ、一カ年の利息だけでも一九九七両余となり、年貢収入だけでは借銀の利息も払えない状況へと追いこまれた(酒井一「河内国石川家領の貢租」(大阪歴史学会編『封建社会の村と町』所収))。藩主石川総貨(ふさとみ)のときであり、藩財政の根本的な再建のため、天保九年(一八三八)から、二宮尊徳による報徳仕法が常陸国真壁郡内の村々で実施された。また、同一二年五月には、河州領分村〻庄屋年寄の名前で、藩の借財引請依頼のため、この地域の庄屋クラス一三人に借銀の割当を願い出ている。一三年二月、大坂在番中の藩主石川総貨の名代として、家老上牧甚五太夫が河内領分を巡回し村方に借財の無心を伝えている。

 以上のような政治情勢に対し、中央政界でも、水野忠邦による天保改革が始められた。これと相呼応する形で、天保一三年六月、藩は河州領分に対して「倹約取締向被 仰出書」を触れ流し、日常生活全般にわたって衣食住を中心とする倹約令が出されている。二九カ条にわたる内容の実際を、いくつかにつき紹介しよう。

 それらは文字通りの質素倹約の厳守励行が要求され、たとえば、服装につききびしい規制が出されている。帷子(かたびら)や越後縮(ちじみ)は勿論、高価な舶載品の使用を厳禁、女子の髪飾りは木櫛に金粉・蒔絵などを厳禁し、履物の鼻緒などはビロード・絹・ちりめん・蒔絵などを厳禁している。飲食接待は婚礼・養子取りなどの振舞いのとき、一汁二菜に限る。郷中への諸役人出張のときも右に準じ禁酒を徹底させる。音信贈答のことは親族以外は堅く禁止する。そして、村全体として盆踊りの禁止、神事祭礼に際し地車をやめ、家作りには不相応のぜいたくを戒め、門構え・塀の造作などへの諸制限を強化しているほか、小売酒屋などは一カ村に一軒のみ許可とするなど、衣・食・住の全般にわたりかなり具体的であり、村落生活の日常の各方面にわたり、煩瑣と言えるほどにきびしい倹約令であった。

 そのほかには、諸職人賃銀、奉公人給銀は仕着(しきせ)、日雇賃銀などについては、郷中で相談のうえ決定せよという条項や、村内で農業以外の余業を専業とする無耕作者の居住を禁止し、小間物・雑貨・菓子類その他の小商いの禁止などの条項は、幕府の天保改革における封建農村・農本社会の維持、農業以外の余業の禁止、諸職人の賃銀統制などの諸政策と合致するところが多く、譜代藩として幕府の天保改革の諸政策と類似のものがみられる。

 なお、同年七月六日付けで「郷中倹約取締書」が出され、さきの六月の法令をうけ、奉公人・日雇・諸職人など、たとえば農稼・黒鍬日雇・綿打賃・大工日雇・左官などの各方面の職種にわたり、賃銀統制の具体相について庄屋らを中心として申し合わせているのである(千早赤阪村新田良蔵氏文書)。