河内領貢租米売却と藩借銀

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学習院大学史料館所蔵の「下館藩家老牧家文書」の内に、「享和元年九月十一日~享和二年五月二十一日、大坂逗留中日記」と表題のある日記がある。寛政七年(一七九五)九月に襲封した石川総般(ふさつら)のときで、家老牧甚五兵衛が、東八太夫、水野清八郎ら三名で江戸から大坂の藩屋敷に来着し、藩の借財方の交渉や河州領貢租米の売却、江戸や下館への送金などについての具体相を記した公日記である。

 彼ら一行は九月一一日来坂、翌々一三日、江戸や下館での藩財政が難渋のため、金六〇〇〇両の金子を送金することで「米長(米屋長兵衛)」へ世話してほしいとたのんだところ、同人から藩の河州物成を換銀の上で振り込む方法がよいといわれた。また九月二〇日には、京都町中からの借銀の返済が相滞ることは、大坂町中からの借財が中断することにつながるので、早く、京都町中からの借銀返済状況を説明することが緊急事であると、談じあったという。着任早々にして藩元への金子送金や、藩の新たな借財のための新しい方法につき、語りあったことが知られる。一〇月一日には米屋長兵衛を呼び出し、借銀の返済方でつぎのように取り極めた。昨申年(寛政一二)に米長への借銀の内、元銀と利銀との返済で、銀一六二貫九五九匁二分五厘を返済したが、本酉年(享和元)には、利銀として年五朱の割で八貫一四七匁九分五厘を返したい。向こう三~四年間はとりあえず利銀のみ渡しておく。他の借銀の返済が終了したら、そのときから元銀も渡すようにしたい。また、別口の借銀もあり、銀二五二貫五四五匁二分四厘は三〇年無利息として、本年分八貫四一四匁七厘三毛を返金の予定で、あわせて本年は一六貫五六二匁一分一厘三毛の返済になると申し渡している。そして、明春には米屋長兵衛を江戸へ召し出し、藩の借銀方の労苦に報いるため、応分の待遇を与えたいと申し渡したという。

 一〇月五日になると初回の河州米の出米が三七石あり、入札の結果、石代銀七五匁余で、河内屋藤兵衛が落札した。翌日、牧甚五兵衛、水野清八郎らは河州領白木役所に出張してくる。恐らく、今後の河州領の貢租米の出米につき、領分村々と相談したことであろう。その後、河州二番米から六番米まで、一〇月一三日から一一月一四日にかけ相ついで出米があり、それぞれ落札、換銀が行われている(表43)。河州米の出米は、合計で五八九石に達している。

表43 下館藩河州領出米と換銀
月・日 河州出米 石当り値段 落札者 備考
10・5 初番 37.0 75.8 河内屋藤兵衛
10・13 二番 105.0 74.8 吉野屋五兵衛
10・16 73.15 米屋伊兵衛 江戸・下館で落札
10・28
~29
四番 136.0 71.85 はりまや佐兵衛
11・11 五番 153.0 70.8 はりまや佐兵衛
11・14 六番 148.0 71.86 米屋伊兵衛
糯米 10.0 74.5 戸倉屋甚助

注)「大坂逗留日記」より作成。

 この間に、一〇月一二日、河州領大庄屋北村源右衛門に代官見習、金五両二人扶持を与え、以前からの米三石の扶持はそのままとし、ほかに、大庄屋中津原村前田忠兵衛も同様に代官見習として、金五両、二人扶持を下付、星野仁太夫は出精相勤め十人扶持を下付されるなど、現地の有力な富農・大庄屋層を懐柔し、江戸藩邸に上申する旨を申し述べている。同月一五日には金三〇〇両を江戸藩邸へ、そのうち一〇〇両は下館へとそれぞれに送金しているのである。

 河州領貢租米の売却換銀の問題が一応決着したので、一二月九日、東八太夫・東忠左衛門両人に対し米払出精のため、二両二歩ずつ給付する旨江戸藩邸に申出たとあり、また、代官からも別口で七〇〇両の借入ができたことを記し、江戸・下館双方で合計一五五〇両を送金し、下館へは四五〇両であったと八太夫が申し述べている。同一四日に、壷井新右衛門が、去る巳年(寛政九年)借入れた借銀のうち、交渉して利下げに成功したので、藩から御紋付羽織が下賜されたと記している。一二月二〇日には、借財一件で功労のあった忠左衛門・善助両名へも、御紋付御袷羽織が下付されたという。一二月二二日には、江戸藩邸へ合計で金二〇六五両、下館へ金五五〇両をそれぞれ送金したと、総括して記録している。また、同月二七日にも、東八太夫・忠左衛門の両人に対しても、藩領河州米の売却換銀に功労があったというので、金一〇〇〇疋ずつ給付したと述べられている。

 以上で「逗留日記」の記事から、藩の借銀や貢租米売却・換銀、江戸・下館双方への送金などについて、煩をいとわず、関係記事に注目してきた。そのほかは、大坂の銀主への接待、市中の社寺その他の見物、江戸・下館などへの連絡などに関係する記事である。河内領が総領地高の約四〇%近くを占める下館藩にとっては、藩の財政を支える重要な宝庫ともいうべきであり、河内領の貢租米の売却、換銀を調査するために、家老を始めとする藩の重臣たちの、河内領巡見があったことは、藩がいかに重視していたかを示すものである。しかも、京阪の豪商に懇意となり、借銀するに好都合であったことも、その史料から窺えるところでもあろう。