膳所藩定書と河内飛地領

551 ~ 553

膳所藩石川氏は、すでに述べたように、慶安四年(一六五一)四月、伊勢亀山に転封になり、これと入れ替わりに本多俊次が七万石で、父祖ゆかりの地たる膳所に再入封し、明治期まで一三代、二二〇年間にわたって在封した。俊次は膳所に再入封した翌月の慶安四年五月、二九カ条の「定書」を制定した。藩領全体を対象とする農民統括の基本法典であり、近江城付地だけでなく、河内飛地領をもその対象としていたことは、「定書」が河内飛地領の村々の旧庄屋層の所蔵史料のなかで見出されることにも明らかである(彼方中野家文書のほか河内長野市和田新三郎家文書)。この「定書」は承応二年(一六五三)九月、俊次により再度同文の法令とし公布された。俊次の「定書」に対する意気込みの一端を示すものである。さらに膳所藩では、最後の藩主康穣(やすしげ)まで一三代の間、幼死した康政を除き、必ず「定書」を発布し藩の農政の基本を明確にしてきた。俊次の慶安四年五月の「定書」は市域から発見されないが、同文の承応二年九月の「定書」が存在する(近世Ⅲの1)。その内容につきふれてみたい。なお、膳所藩歴代藩主の「定書」につき、市域で見出されたのは表44のとおりである。

表44 膳所藩御条目と市域
藩主名 制定年月 条文数 所在
年月  (近江) (河内)
本多俊次 慶安4.5 29 29 『河内長野市史』6
  俊次 承応2.9 29 29 彼方中野家文書
  康将 寛文8.7 29 29
  康慶
  康命 正徳5.5 34 35 『河内長野市史』6
  康敏 元文3.正 40 41
  康桓 延享5.6 40 41
  〃  宝暦4.5 41 42 彼方中野家文書
  康伴 明和4.11 41 42
  康匡 安永7.8 41 42
  康完 天明6.8 41 42
  康禎 文化5.8(6) 41 42
  康融 弘化4.8 41 42
  康穣 安政3.9 41 42

 俊次の二九カ条の「定書」には、三つの項目すなわち、①公儀すなわち江戸幕府法令の遵守などの条項、②本多氏の民政の姿勢および役人に関する条項、③農民の村落生活内部における生活規制の条項に分けられる。さらに、①の項目については、キリシタンの摘発、浪人の取締などの一般的な規定であり、②の項目の民政への姿勢としては、(イ)家中の武家どもに対し不作法な行為の禁止、(ロ)しかし、担当の役人などが不作法したときは、遠慮なく訴え出てよいこと。(ハ)所定の負担を怠ってはならぬこと。(ニ)役人や政庁への礼物および賄賂の一切禁止のことなどがあげられている。

 さらに、③の農民生活への規則につき、興味のある内容をあげておこう。その条文には、山林の伐採を禁止し、村中の賑わいや防風のために、田地になりがたい土地に竹木を植え、家の破損や修理のために使用させ、たとえ親子兄弟のためであっても勝手な使用をさせず、本多氏の用材としても理由のない伐採は禁止すると規定している。畑中の竹の子をぬきとり食用に充てよと述べたり、百姓屋敷に果樹を植え、なりものによる農民への収益を期待したのも、農民生活の基礎の経済的充実への一助にするといった方向があると思われる。なお、年貢関係では、年貢や金銀の納入には必ず藩の蔵奉行に直接渡し、代官への納入を禁止したり、年貢の納入のとき金銭での代納に際しては、米の値段は大豆・稗などのその年の相場に準拠すること、および年貢の皆済以前の借銭・借米を禁止するなどの条項がみられる。そのほかに、年貢の高下につきみだりに訴訟を禁じ、収穫の実態と相違するときは訴訟してもよいが、「舂法(ついほう)」を申し付けるのでその決定に従うべきことなど、貢租関係の規定には、年貢納入につききびしい箇所が、いくつかみられる(『新修大津市史』五・福島雅蔵「江州膳所藩本多氏の農村法令と河州飛地」『幕藩制の地域支配と在地構造』))。