俊次につぎ藩主となった康将や康慶は、俊次の定書をそのままひきついでいる。正徳四年(一七一四)に康命(やすのぶ)が襲封したが、翌五年五月、それまでよりも五カ条多い三四カ条にわたる定書を制定した(『河内長野市史』七・『草津市史』二)。俊次らの公布した定書に比して、つぎのような内容の条項が、あらたに規定されている。すなわち、①隠田の所有の禁止と所有者への厳罰、②新田開発は三カ年作り取りである、③荒地の開発に際し、藩の郡奉行らと相談の上、新田開発後の二~三年間は年貢を免除、④旅行者への規定、⑤道路・橋梁などの破損等の修復などであった。隠田所有の問題と新田開発後の年貢免除につきふれたものである。さらに、このとき、河内の飛地領に対しては、「一納米売候様ニと侍両人毎年遣之候間、買手を聞立、無依古可申達事」という条項が、付け加えられている(『河内長野市史』七)。これは河内領の貢租米の売却に際し、藩から二人が出張するので、村方として買い手に十分に周知徹底させてもらいたいという内容で、河内領ですでに慣行化している事実を成文化したものである。河州領の貢租米の売却、換銀を藩の強い統制下におこうとするものである。
ついで享保四年(一七一九)一一月、康敏が第五代藩主になると、元文三年(一七三八)正月に、さらに六カ条を追加し四〇条とした(草津市渋川共有文書)。つぎのような内容が加えられている。①年貢米の米拵の仕方を入念にする。②田畑の耕作に念を入れその管理に留意する。③一〇石以下の持高の細分割を禁止。④田畑の入質や借銀、子孫へ譲渡のとき、検地帳と対照し斗代を確認。⑤年貢米を村の溜蔵に入れたとき、警備人をつける。⑤年貢米を港から積出しのとき、船宿に数日おくこと厳禁などである。追加された条項は、年貢米の上納をめぐる実際的な注意書がほとんどである。既述したように、康命のときは、隠田の摘発と新田開発が重要視されており、農民に田畑への耕作に精励させ、新田畑を積極的に開発し、藩に新田畑として申告を怠ることなく、農業生産の拡大につとめることを強調している。康敏のときは、以上に加えて、年貢の納入につき細かい指示を与えた。藩にとり毎年の年貢収入の絶対量を確保し、財政の恒常的な安定をはかることが、何より重要な農政の方向となってきたことを示すものと考えてよい。第六代康桓(やすたけ)は延享四年(一七四七)一〇月に襲封し、翌五年六月、さらに一カ条をつけ加えた定書を布告し、同文のものを宝暦四年(一七五四)五月にも触れ流している(彼方中野家文書)。一カ条多いその内容は、衣服の絹・紬類の着用禁止がつけ加えられているだけで、他の条項は同様であった。
以降、定書を交付せずに短命に終った第七代藩主康政を除き、第八代藩主康伴は明和四年(一七六七)一一月定書を出しているが、それは康桓のものと同文であった。第九代康匡(やすただ)のとき安永七年(一七七八)八月、定書が四一カ条(ただし河内飛地領は四二カ条)で発布されてから、天明六年(一七八六)八月、第一〇代藩主康完(やすさだ)のときを除き、文化五年(一八〇八)一一月の第一一代藩主康禎(やすつぐ)の定書、弘化四年(一八四七)八月の第一二代藩主康融(やすあき)の定書、安政三年(一八五六)九月第一三代藩主康穣(やすしげ)の定書と、ほとんど同文の内容であり、変更されることなく、維新のときの廃藩までつづいた(彼方中野家文書)。もっとも、康完の発した定書は、領内へは四一条であったが、草津・石部両宿駅に対しては四カ条、膳所城下五カ村と宮町に対し一カ条、さらに河内領に対し一カ条追加して郡代にあてられている。そのうち河内領に対しての一カ条は、以前に康命のときに発したものと全く同文で、河内領の貢租米の販売について述べたものである(『草津市史』二)。「定書」の条項が拡大するにつれ、農政の多岐にわたる諸方面を含むことになる。全体としての特色は、新田畑の開発とともに本来の田畑を荒らさず、耕作に精励し、年貢の納入に当っては厳格を旨として郷方役人もその姿勢をただすなどのことがあり、農民に対する撫育的側面が強調され、苛酷な罰則がないのが印象づけられる。