河内領村々への支配法令

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膳所藩では前述したように、歴代藩主の「定書」が藩の民政統治の基本方針として遵守されてきた。それだけでなく、藩主や郡奉行以下の民政関係の諸役人が、時勢に応じ公儀の大方針を伝達したり、諸役人の施設方針をさらに布告して、農民の村落社会生活の各方面を規制することが行われた。彼方村に残るいくつかの実例を紹介したい。

 寛文八年(一六六八)三月付けの幕府法令を、藩主が藩領全体に布告したものが、彼方村の庄屋・小百姓中にあてられている。内容は七カ条にわたり、農村生活の各方面につき倹約を申し合せ、奢りを禁止し油断なく農事への精励を説いている。衣食住の全般から、村々での勧進能・あやつり・相撲興行への規制、神事祭礼、年忌、婚礼などにおける華美禁止などに及んでいる。しかし、近世後期の同様の法令に比し、具体的な記述はなく煩瑣なまでの生活規制がみられない(彼方中野家文書・児玉幸多編『近世農政史料集一』江戸幕府法令上)。ついで、寛文一一年二月、幕府からのキリシタン根絶のための禁令を、そのままで藩の地方役と思われる中神藤右衛門・中村吉右衛門・牧藤右衛門・高橋彦右衛門・村松甚兵衛・鈴木清兵衛の六人の連名で、彼方村の庄屋・肝煎中にあてられている。すでに寛文三年(一六六三)の武家諸法度には、初めてキリシタン宗門禁制の箇条が加えられ、家綱政権はキリシタン禁制を強く意識していたが、幕府は寛文四年にキリシタン摘発のため、全国諸藩に宗門改役の設置を義務づけ、村々に宗門改帳の作成を命じた。それまで幕領で施行されてきた制度を、この機会に全国に拡大したものであった。寛文期の前後には、各藩でキリシタンの弾圧が、幕府との連繋のもとで臼杵藩や尾張藩でみられ、前者では万治三年(一六六〇)・寛文元年以降にわたり、一一名・七三名・一九名と多数の人々が召し捕えられた。尾張藩でも寛文元年に始まり、キリシタンの捕縛が実施され、都合一〇〇〇人以上の処分者を出した(村井早苗『幕藩制成立とキリシタン』)。彼方村への法令の内容は、年季奉公人の出替り(交代)のとき、宗門改を入念に実施し、保証人をたてよ。キリシタンの不審な信者がおれば、必ず召し捕えよ。領内で宗門改めを必ず実施し、信者のかくまいおきを禁止。規則にそむくとき、村役人を曲事と処罰すると申し述べ、付則として村々でのキリシタン高札の文字の書き直しを命じて、その保全方に留意させている(彼方中野家文書・児玉幸多編前掲書)。寛文一一年二月に触れ出されたものである。いずれも、第二代藩主康将のときである。第一代藩主俊次のときにひきつづいて、「定書」にみられるように、社会不安の除去、秩序の維持といったことへの留意が、キリシタン宗門への弾圧に強く現れたと考えられよう。

写真167 彼方村庄屋中野家屋敷

 藩主の「定書」が、四代康命、五代康敏と年限を経るにつれ、その内容箇条は大幅な増加がみられた。それについては既述したとおりである。六代藩主康桓のとき、寛延元年(一八四八)九月、藩の郡奉行か、地方役かと思われる加藤左太夫・村上治左衛門・坂元茂太夫・勝間常右衛門の連名で、各地の村役人・小百姓に対して九カ条の「覚書」が発せられている(彼方中野家文書)。その内容はつぎのとおりである。①隠田の所有は厳禁であり、必ず申し出ること。山方、浦方、川辺などの無年貢地の保持者は、その後の変化を再調査するので、すぐ申し出よ。②永荒・永引高は検地実施後の長年月を経て、実体と違ってくる。検地帳との相違があるにかかわらず、検地永引高と主張する者は必ず処罰する。課税地とするのでなく見取場に申し付けたい。③新田開発は定められたとおりに申し出よ。④山崩・海辺付近で州崎や薮地などは、以前から開発の進行で現在無年貢地でない処は、現在その土地の実態を届け出よ。⑤百姓持山・林薮などもすぐに課税地としてでなく、運上など賦課するにすぎないなどと、新田開発を中心として、高入地への編入、無年貢地の処理方針、実態と相違する検地帳上での永荒・永引高などの処理、および山林・薮林などへの運上の賦課などにわたり、新田開発の奨励を積極的に実施している。以上の事柄は、明らかに課税地の拡大により、藩の年貢収入の恒常的な増加をはかることが、大きな関心事であった様子を示すものであろう。この時期における藩主の定書の条項の付加・拡大の内容とも、相一致するものであった。

 一八世紀後半から一九世紀にかけ、歴代藩主の「定書」が内容的に固定化し儀礼化する傾向があった内で、村落では、上からの倹約励行の方針が強く貫かれていった。その事例として、彼方村をはじめ各村の庄屋層に示達され「主法書」と名付けられた倹約仕法に注目してみよう。天保一三年(一八四二)六月、天保改革政治の進行の内で、領主側からのきびしい倹約令で領分内の村役人が立会い、一統、つぎのような主法を申し談じたという。

 その内容は三七カ条からなり、農村社会生活の万般にわたっていて、具体的には農民生活のあり方と、すべてにわたる倹約方針を明確にしている。農業稼は朝六ツ時(午前六時)から出精して従事し、男女ともに一五歳以上は副業たる夜業に専念し、女には綿つむぎの内職を奨励する。年貢納入や郷支配銀の取立も、村役人の勤務日に納付すべきことを述べる。なお年貢の免割や村方諸入用の割賦方の会合の中飯には、簡素な香の物・湯漬で済ますように質素倹約の厳守を説いている。また、農家の年中行事には、正月祝い・男女の初節句・七夕・盆の諸行事・秋の玄猪・歳暮などにわたり、ぜいたくな振舞はすべて禁止の対象とする。婚礼・葬儀・年忌・安産などの慶弔の行事や農民の衣服・履物・花緒・笠・傘などに至るまで、きびしい倹約を説き、同様であると申し述べている。以上の事柄は、文化一三年の倹約令の箇条とは少し趣意の違うこともあるが、領主の意に背かぬよう、村役人一同が連印して遵守するようにしたいと、結んでいるのである(彼方中野家文書)。