近世部落の成立

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元来、「穢れ(不浄)」の認識は、すべての人間に共通するものであった。すなわち、人間はすべてこの現世(穢土(えど))において生を受け死んでいく、不浄に満ちた穢身であると考えられていた。このような認識を基礎として、法然(ほうねん)は専修念仏による他力往生、親鸞(しんらん)は凡愚の往生を説いた。ところが、中世において、支配者階級は、自己の優越性を確立するため、河原に住み鳥獣をひさぐものなどを穢れに満ちたものとして差別し、それが民衆の間にも浸透していった。

 近世における「かわた(えた)」身分の創設については、諸説があるが、一般には、豊臣秀吉による天下統一の過程で、いま述べた民衆の差別意識を利用して政治的に創り出されたといわれている。秀吉は、太閤検地・刀狩り・身分統制などによって兵農分離を推進し、近世身分制度の原型を創り出した。それは、豊臣政権のもとで、近世幕藩体制の原型が成立したのと軌を一にするものであった。

 石川郡新堂村は、豊臣政権の発足とともにその直轄領(蔵入地)となった。文禄・慶長年間の検地帳は残されていないが、まず文禄年間の太閤検地は、「村切り」すなわち直接生産者である本百姓の土地保有が明確にされ、村落支配・年貢村請ができるように出作・入作が整理され、近世村落の村境が確定されることを意味した。慶長三年(一五九八)秀吉の死去、同五年関ケ原の役と続いた中央政権の変化の後、同村は、一大名と化した大坂城主豊臣秀頼の所領として引き継がれた。同一三年には、片桐市正(且元)によって再度検地が行われ、村高は一七〇一石二斗六升となった。太閤検地による村切りの際には、すでに「近世部落」が枝村として含まれていたことは間違いがない。

 近世部落とは、被差別部落と同義であるが、近世のかわた身分の人々に対する差別が、近現代の被差別部落が受けているような社会的差別ではなく、まさに封建的身分差別であり、法制的・制度的差別であるという認識に基づいて用いられている歴史用語である(部落解放研究所編『部落解放史』上)。

 新堂村は、古くは、平安時代初期に編まれた『和名類聚鈔』に見える雑居(さわい)郷の内にあった。近世には、北新堂(本村)と南新堂(枝村)に分かれていたが、このうち北新堂は、かつては二町ほど東北の里田(さった)の地にあり、千堂村と称した。千堂の名は、寺院が多くあったことに由来する。ところが、天正年間、織田信長の河内平定に際して里田の地が兵火にかかり、堂塔伽藍もすべて焼失した。そこで、村民は、現在地の北端に新たな堂を建立して宝海寺(無本寺観音堂)と名付け、続いてその南方の地において、東高野街道をほぼ中央にはさむ形で計画的な町割りを行って民家を建て、新堂村と改称したという。村内には、北町・会所町・庄屋町・南町・大工町があり、大工町は、大工村という独立村であったのを、新堂村開発と同時に合併したと伝えられている(南河内郡東部教育会編『郷土史の研究』)。

 南新堂は、石川沿いの低地に位置した。享保二〇年(一七三五)刊行の『河内志』に、「属邑一」とあるのはこの地を指している。「明細帳」や幕府代官役所への提出書類では「新堂村領内皮多」あるいは「新堂村領内穢多」となっているが、「宗門改帳」や他村などとの間でやり取りされた書類では、古くからの富田村の呼称が使われていた。しかし、いま述べたとおり、新堂村の枝村であったため、本村に従属した非行政村落であった。

 近世初頭、えた身分に編入された人々としては、次のような可能性が考えられる。「川原者」「きよめ」「細工」あるいは寺社の隷属民などである。そのいずれであっても、中世末期の身分と穢れ観念がそのまま近世に引き継がれたものである。また、戦国時代軍需用の皮革生産に当たっていた「かわた(革屋)」職人などの編入も戸数の増加につながったが、零細な規模ながら田畑を保有して農業に従事する農民的階層の系譜も無視できない。さらには、けっして実証されたわけではないが、戦国時代末期、一向一揆にかかわって身分貶下され、近世部落に組み込まれた人々の可能性も指摘されている(樫井部落史研究協議会編『樫井部落の歴史』)。