大坂周辺地域では、関八州を中心に甲斐・伊豆・奥羽・駿河などの国々を支配していた弾左衛門のような「えた頭」は存在しなかった。しかし、富田村は、新堂村の枝村として本村に従属していたほか、いつのころからか、摂津国西成郡渡辺村(現大阪市浪速区)の下で行刑に携わり、「えた役」を負担していた。
渡辺村は、近世都市大坂の治安維持を目的として設定された「役人村」であった。文久二年(一八六二)の「役人村由来書」によると、渡辺村の役負担は、①慶長年間(一五九六~一六一五)から断罪御用、②元和年間(一六一五~二四)から四天王寺の太鼓と大坂城の時太鼓の張り替え、③寛永一一年(一六三四)から草履・絆綱を大坂町奉行所へ献上、④東照権現宮の太鼓張り替え、⑤享保一六年(一七三一)から大坂三郷大火のときの火消しなどであった。いうまでもなく、富田村が分担していたえた役は、①の断罪御用に関してである(『日本庶民生活史料集成』一四)。
渡辺村は、西日本における皮革産業の中心地であり、近世部落の中では圧倒的な経済力を持っていた。この経済的優位性を背景として、行刑の下働きを行う部落を周辺部に拡大していったと考えられる。富田村では、斃牛馬の処理権と役負担が結びついた形となり、刑の執行に携わっていた区域は、斃牛馬処理の草場(持ち場)であった。
例えば、古市郡新町村(現羽曳野市)において、寛文四年(一六六四)河内太左衛門という罪人が張り付けになったとき、富田村から出向いて「御役儀」を勤め、延宝三年(一六七五)水分村五兵衛の張り付けのときも、同様に「獄門首御番役」をしている。また正徳五年(一七一五)には、毛人谷村で乞食の獄門首が晒(さら)され、富田林村の墓所でも、「盗物売捌」の科で死罪になった道明寺屋次郎兵衛・八百屋清兵衛の首が晒されたが、いずれも、富田村は三日間番役を勤めた(新堂竹田家文書「乍恐以口上書申上候」「覚」、富田林杉山家文書「明細帳」)。
富田村に関して、行刑の勤め方を伝える史料は得られないが、享保二年のころ、丹北郡布忍(ぬのせ)村(現松原市)の「仲間式法」は、以下のとおりであった。①仕置があるときは、布忍村からその場所に出向いて、鋤・鍬などを使う仕事に従事し、そのとき使用した道具類は持ち帰ることができる。②番家をつくり、昼夜番人足を出すが、そのための丸太一一本・竹二束・縄五把・こも一〇〇枚・薪二〇貫目、および番人足代一日一人銭二〇〇文ずつは、仕置場所の村が負担する。③仕置者を連れてくる渡辺役人村刑吏の送り人足にかかる昼飯は、布忍村から出すが、この費用も仕置場所の村が負担する(『松原市史』一)。富田村の場合も、これと大きく異なることはなかったと考えられる。
上記の役負担は、年貢・国役高などの免除を伴うものではなかったが、幕府領のときの「御鉄炮合薬御城内外竹縄藁代等掛り高」や幕末期の助郷勤高などについては、紺屋高・郷蔵敷高・新田畑高・大工高などとともに、穢多高五〇石も控除の対象となった。
なお、富田村は、村々で行われる芝居・相撲などの興行権を与えられ、興業支配の労務提供の代償として「十分一銀御祝儀」を得ていた。また、正徳二年死者の供養のために経木(きょうぎ)を流す「流灌頂(ながしかんじょう)」が石川で行われたときも、富田村が支配に当たり、法事の後、供物・床莚(ゆかむしろ)・竹木などを貰い受けていることが知られる(新堂竹田家文書「乍恐以口上書申上候」)。