戸数・人数の推移

564 ~ 570

新堂村は、慶長一三年(一六〇八)検地の本高一七〇一石二斗六升に新田高二六石三斗七升を加えると合計一七二七石六斗三升の、かなり規模の大きい村落であった。そのうち枝村富田村の屋敷地の高は八石三斗二升八合、反別にして五反九畝一五歩であった。「上畑屋敷成」であったため、石盛は本村の一石六斗を下回る一石四斗であった。本村の屋敷地の高七六石余、反別四町八反余と比較すると、富田村の屋敷地は、ほぼ八分の一の狭さであったことになる。ところが、文政一一年(一八二八)の「明細帳」(近世Ⅰの二)によると、本村が戸数三二三戸、人数一一八二人であるのに対して、富田村は、戸数一七一戸、人数八五〇人を数えており、本村と比べると、単位面積当たり戸数で四倍強、人口で六倍弱というきわめて過密な居住状況であったことがうかがえる。

 「宗門改帳」は、切支丹禁制を徹底させるための宗旨調査の帳簿で、幕府は、寛永一七年(一六四〇)幕領に宗門改役を置き、寛文年間(一六六一~七二)からはこの帳簿の作成を全国に義務づけて、村役人から毎年定期的に提出を求めた。宗門改のほか、人別改の戸籍台帳としての性格をも有し、檀家各戸の家族構成・名前・年齢が記載されて、切支丹でない旨の証明がなされている。なかには、持高・婚姻・奉公などについて書き込まれたものもあり、末尾において村全体の戸数・人数を集計している。

 富田村の宗門改帳は、差別性を直截に映し出した形の、本村とは分離された「別帳」として作成された。いまこれにより、まず富田村の戸数と人数の推移をほぼ一〇年ごとに示すと、表45のとおりである。趨勢としては、戸数・人数ともに増加現象が見られ、享保一二年(一七二七)を一〇〇とする指数で、表示の範囲内では、文化・文政年間(一八〇四~二九)における激増の結果、天保五年(一八三四)に、前者が一六六、後者が一七四とピークに達している。そして、幕末の慶応三年(一八六七)には、若干低下して戸数一四〇、人数一五七の指数を示している。享保一二年以降幕末までの一四〇年の間に、戸数で四割、人数で六割弱の増加を見たことになる(新堂竹田家文書)。

表45 戸数・人口の推移
年次 戸数 人口
享保2(1717) 423 (86)
12(1727) 110 (100) 492 (100)
元文2(1737) 128 (116) 512 (104)
延享4(1747) 128 (116) 492 (100)
宝暦6(1756) 139 (126) 576 (117)
明和4(1767) 134 (122) 656 (133)
安永6(1777) 124 (113) 529 (107)
天明6(1786) 129 (117) 564 (115)
寛政8(1796) 142 (129) 634 (129)
文化4(1807) 151 (137) 739 (150)
13(1816) 155 (141) 735 (149)
文政10(1827) 171 (155) 850 (173)
天保5(1834) 183 (166) 855 (174)
14(1843) 119 (108) 634 (129)
安政2(1855) 136 (124) 712 (145)
慶応3(1867) 154 (140) 772 (157)

注1)新堂竹田家文書「宗門改帳」により作成。
 2)( )内は、享保12年を100とする指数。

写真168 延享4年「宗門改帳」 (竹田家文書)

 新堂村本村および周辺の村々における人口動態は、表46のとおりである。山中田村は停滞、北大伴村・甲田村は微増、本村・佐備村・新家村・伏見堂村は減少の傾向を読み取ることができる。全国的には、近世中期以降の人口は停滞的であったといわれている。本村・佐備村・伏見堂村のようにかなり人数を減じている村も散見されるが、富田林地方の村々は、おおむね全国的な趨勢を逸脱するものではなかったと考えられる。

表46 村々の人口
年次 新堂村本村 山中田村 北大伴村 佐備村 甲田村 新家村 伏見堂村
寛延3(1750) 238 (100) 419 (100) 576 (100) 309 (100) 118 (100) 219 (100)
宝暦5(1755) 229 (96) 578 (100)
6(1756) 296 (96) 108 (92) 193 (88)
7(1757) 468 (112) 594 (103)
12(1762) 1,426 (100)
明和6(1769) 1,387 (97)
安永1(1772) 1,400 (98)
6(1777) 422 (101)
7(1778) 232 (98) 580 (101)
9(1780) 316 (102) 106 (90) 188 (86)
天明3(1783) 556 (97)
5(1785) 241 (101) 429 (102)
寛政2(1790) 228 (96) 407 (97)
5(1793) 507 (88)
文化2(1805) 212 (89) 437 (104) 414 (72)
7(1810) 237 (100) 424 (74)
11(1814) 248 (104) 462 (80)
13(1816) 249 (105) 318 (103) 103 (87) 157 (72)
14(1817) 245 (103) 451 (78)
文政5(1822) 237 (100) 447 (78) 326 (106) 100 (85) 163 (74)
6(1823) 233 (98) 449 (78)
11(1828) 1,182 (83) 235 (99) 324 (105) 108 (92) 174 (79)
12(1829) 237 (100)
天保2(1831) 461 (80)
14(1843) 956 (67)
嘉永2(1849) 217 (91) 464 (111)
6(1853) 251 (106) 435 (104)
文久1(1861) 241 (101)
慶応1(1865) 230 (97)

注1)( )内は、指数。
 2)三浦忍「近世後期在郷町周辺の人口構造―富田林地方の宗門改帳分析―」(黒羽兵治郎先生喜寿記念会編『大阪地方の史的研究』所収)、『河内長野市史』7、富田林杉山家文書・新堂平井家文書「村明細帳」により作成。

 先に見た富田村の増加傾向は、これらの村々とは明らかに様相を異にするものであった。このことは、ほとんどの近世部落に共通していたが、なぜ近世部落においてだけ人口増加が著しかったのかについては、これまで議論が重ねられてきたところであった。戦前には、罪人、武士の落魄、所払、追放、敵討ち、駆け落ちなどによるえた非人化や、社会の落伍者が比較的安楽な生活を求め、あるいは身を隠すために多く流入したという外的要因が強調されたことがあった(高橋貞樹『特殊部落一千年史』、喜田貞吉「エタ源流考」(『民族と歴史』二の一))。

 しかし、近世部落の人数増加を外部からの流入で説明するのが妥当でないことは、事由別に人数の増減を見た表47からも明らかである。すなわち、表示の一六年の合計では、一六三人の増加となっているが、このうち、縁付・養子そのほかの社会増は四人にとどまり、出生と死亡の差である自然増が一五九人に達している。社会増は無視し得る数字で、転出と転入のバランスがほぼ取れていたといえるが、自然増は平均すると一年に約一〇人であり、これが表45における人数増加傾向の原因であった。

表47 事由別の人数増減
年次 出生 死亡 転入 転出 増減
縁付 養子 立帰 引越 縁付 養子 立帰 引越 家出
享和1(1801) 32 20 4 4 2 4 +18
3(1803) 23 24 1 3 1 3 -1
文化2(1805) 48 7 1 +42
3(1806) 32 12 6 1 1 +24
4(1807) 24 22 1 1 1 +3
9(1812) 21 39 1 2 1 10 1 -27
10(1813) 29 28 1 3 1 6 0
11(1814) 23 13 1 1 1 5 +6
12(1815) 10 25 1 1 2 2 7 9 -29
13(1816) 36 10 1 10 +37
文政2(1819) 39 19 1 3 1 1 1 +21
5(1822) 41 16 6 7 5 3 3 1 +26
6(1823) 32 35 1 -2
7(1824) 30 10 1 8 2 5 +6
8(1825) 30 21 1 3 5 +18
天保13(1842) 22 12 1 10 +21
合計 472 313 23 20 35 9 17 9 8 14 35 +163

注)新堂竹田家文書「宗門改帳」により作成。

 このような出生による自然増の理由としては、一つに、浄土真宗の門徒として信仰が厚く、罪業感から堕胎・間引きを行わなかったことが挙げられる(岡本良一「徳川時代における部落の人口増加」(『部落』二三))。村内には、村民すべてが旦那となり、信仰の対象としていた浄土真宗円光寺があった。同寺は、部落寺院の本山であった摂津国島上郡富田村(現高槻市)の本照寺の末寺で、一畝二〇歩(年貢地)の寺域を持ち、永禄年間(一五五八~六九)の開基で、元禄四年(一六九一)から寺号を公称していた。また幕末には、ここで寺子屋が開かれていた。日常的な蔑視(べっし)や差別の中で、来世の救済を説く仏の教えは、村民が生きていくうえで、大きな意味を持ったと考えられる。

写真169 円光寺

 いま一つには、皮革・雪駄(せった)・日雇・農業からなる経済的基盤、さらに家族形態や婚姻のあり方などが自然増をもたらしたと考えられる。近世部落では、末子相続が一般的で、いかに貧しくても、子供が成人すれば順次結婚し、別家を構えたから、次男・三男が部屋住みで一生を終えることはなかった。この別家の創出が人数増加につながり、そこには、中心的な生業が「賃稼(ちんかせぎ)」のように土地や資本を必要としないものであるということが前提になっていた(真岡二郎「一皮多村の階層分化と人口増」(『部落問題研究』二九)、高市光男「近世部落の人口動態とその背景―和泉国泉郡南王子村の場合―」(西播地域皮多村文書研究会編『近世部落史の研究』下)、畑中敏之『「部落史」を問う』)。

 ただ注意を要するのは、死亡が出生を上回る年も散見されることである。これは、過密状態の村の中では、ひとたび悪疫や飢饉が発生すれば、抵抗力に乏しく、大きな打撃がもたらされたことを意味している。例えば、安永元年(一七七二)大坂とその周辺に悪疫が流行したときには、「大坂長町雲助・非人、七、八月疫死夥し、当国(和泉)南王子・塩穴穢多、惣体下賤の者疫死」(「老圃歴史」(『堺研究』九))といわれた。このとき流行した悪疫は腸チフスと考えられているが、富田村でも、同年には六五三人であった人数が、同三年には二五ポイント強も激減して四八六人になっている。また、天保の大飢饉が打ち続いたときにも、天保五年(一八三四)の八五五人が、同一三年には六三四人に落ち込み、同じく二五ポイント強の大幅な減少になっている。