社会増減は、ほぼ均衡が保たれていた。一八世紀中ごろの宝暦から明和年間にかけては、摂津国西成郡渡辺村、河内国若江郡八尾座村(現八尾市)などへの出奉公が若干見られたが、表示が享和元年(一八〇一)以降に限られている表47においては、出奉公も入奉公も皆無となっている。これは、部落民が一般社会に紛れ込むことをおそれた幕府が、類村への出奉公をも禁止した結果である。なお、このことは村の人数増減にはまったく関係しないが、現存の「宗門改帳」によると、村内における奉公は、元文三年(一七三八)一四歳の男子が五年の年季奉公に入り、寛保三年(一七四三)年季明けとなった事例が唯一知られるだけである。
次に、表47の社会増減のうち、まず縁付についてみてみよう。表48は、延享四年(一七四七)及び明和二年(一七六五)の宗門改帳に記載されている「女房」の出身地を表示したものである。村内が圧倒的に多くて、残りが河内・和泉・紀伊の近世部落からとなっている。明和二年には、延享四年に比べると、村外の比率が一層低くなり、村内が八五・六%にも達している。このように、女性の通婚圏が限られ、かつ村内での縁組が一般化している限りにおいては、縁付によって大幅な社会増減が発生することはなかった。
地域 | 延享4(1747) | 明和2(1765) | ||
---|---|---|---|---|
人 | % | 人 | % | |
村内 | 63 | (78.9) | 94 | (85.6) |
河内国志紀郡 | 1 | (1.2) | ||
丹南郡 | 2 | (1.8) | ||
丹北郡 | 3 | (3.7) | 1 | (0.9) |
和泉国泉郡 | 2 | (1.8) | ||
紀伊国葛上郡 | 5 | (6.3) | 4 | (3.6) |
葛下郡 | 1 | (1.2) | ||
高市郡 | 3 | (3.7) | 3 | (2.7) |
宇知郡 | 2 | (2.5) | 2 | (1.8) |
伊藤郡 | 2 | (2.5) | ||
不明 | 2 | (1.8) | ||
合計 | 80 | (100.0) | 110 | (100.0) |
注)表47に同じ。
なお、他村との縁組が行われるときには、「人別送り一札」と「宗旨送り一札」とが必ず取り交わされた。次に掲げるのは、富田村の「いろ」が和泉国泉郡南王子村(現和泉市)に嫁いだときのものであるが、前者の人別送りは、本村の庄屋を通さず、富田村の年寄によって処理されていたことが知られる(『奥田家文書』四)。
人別送り一札之事
一都築金三郎様御代官所河州石川郡富田村たつ娘いろと申者、当未廿八才に相成、此度其御村方之嘉六方へ縁附ニ罷越候、右いろ儀、宗旨ハ代々一向宗ニて、当村円光寺旦那ニ紛無御座候、勿論御公儀御法度之切支丹・類族之筋目ニて茂無之候、然上者、此方人別帳面相除申候間、向後其御村方人別帳面ニ御加入可被遣候、右いろ義、若怪敷抔申者有之候ハ者、当村居住之内者、何方迄も罷出、申披可仕候、依之人別村送り一札、如件
弘化四未年三月 河州石川郡富田村
年寄 庄三郎印
同 仁右衛門印
泉州泉郡南王子村
御庄屋衆中
御年寄衆中
宗旨送り一札之事
一当村たつ娘いろと申者、当未ノ廿八才ニ相成り、此者其御村方嘉六方江縁付きニ参り申候、右いろ宗旨之義ハ、代々一向宗ニ而、則拙寺旦那ニ紛レ無御座候、勿論御公儀御法度之切支丹・転・類族之筋目ニ而茂無之候、然上者、此方宗旨帳面相除申候間、向後貴寺宗旨帳面ニ御加入可被成候、若いろ義、怪鋪宗門抔申者有之候ハヽ、当村ニ罷在候内之儀者、拙僧何方迄も罷出、申披可仕候、仍而之宗旨送り一札差出し申処、如件
弘化四年未三月 日 河州石川郡富田村
円光寺印
泉州泉郡南王子村
西教寺殿
立帰には、縁付・養子の「不縁」によるもののほか、家出人が再度村に舞い戻る場合が含まれる。また、転出のなかで、家出が少なからず見受けられる。家出の理由は、貧困・不行跡その他、さまざまであったであろうが、身分を偽って外部で生きていくことは困難をきわめたらしく、再び村に立ち帰り、えた身分に戻る者も少なくなかった。
安永六年(一七七七)「た兵衛」の二五歳になる女房が出奔したときには、「本郷へ御願申候而、帳面除申候」すなわち除籍が行われた。除籍は、えた身分からの「解放」を意味したから、一般社会での混住を厳禁しようとした幕府の賤民政策とは明らかに矛盾する処置であった。ほかにも、富田村の宗門改帳には、不可解な記載が見受けられる。宝暦五年(一七五五)、武兵衛の次男(一七歳)について「親共麁相ニ付、是迄御帳面相洩レ罷有候、此度御改ニ付、加入奉願候」、また惣兵衛の長男(一八歳)については「親共如何失念致哉、是迄御帳面相洩レ罷在候、此度御改ニ付、加入奉願候」とある。また、明和五年(一七六八)にも、四郎右衛門の長男が五歳で「加入」となっている。生後何年間も記載が漏れていたということは、宗門改帳の不正確さを物語るが、とくにこのことは、集計された数字の類に顕著に現れている。しかし、このことは本節の記述に大きな影響を及ぼすものではないと判断される。