かわた身分に対する穢れ観念が最も強く現れていた職分が、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理であった。その権利は、当初、村に与えられていたようであるが、しだいに草場株と称する株と化し、少数の村民がその株を所持するようになった。草場は、芝先ともいわれ、斃牛馬を取捌くことのできる各村の持ち場の意味であった。その範囲の村々における牛馬は、落命すると自動的かつ無償でその所有権が草場株の所持者に移行するならわしであった。富田村の持ち場が何カ村であったのかは明らかでないが、草場株の所持者については享保年間(一七一六~三五)には「芝取」の名称で八人の存在が知られる(新堂竹田家文書「乍恐以口上書申上候」)。
文久二年(一八六二)の「斃牛馬取捌手続書」(『河内国更池村文書』二)には、「太閤様御時代天正十三年、所々方々斃牛馬取捌持場混雑仕、穢多仲間ニおゐて、故障・闘諍等絶間無之候ニ付、則太閤様ゟ蒙厳命、内藤与右衛門様・上田清左衛門様御両所、河州石川郡東坂田村善兵衛殿宅江御出役有之、厚御利解之上、草場支配所夫々持場を相定」めたとある。天正一三年(一五八五)、持ち場の境界が不分明となり混乱していたところ、豊臣秀吉の厳命によって、あらたに持ち場が決められたという内容である。これは伝承を幕末に文章化したもので、信憑性には問題が残されているが、村ごとに古くから斃牛馬取捌きの持ち場があったこと、太閤検地による村切りと持ち場の再編とがほぼ同じ時期に行われたことなどは、虚構とはいえないであろう。
いま史料上確認できる事例はわずかであるが、この持ち場をめぐっては、紛争がときおり発生した。正徳四年(一七一四)には、丹北郡布忍村(現松原市)の持ち場であった丹南郡半田村(現大阪狭山市)で牛が死に、それを富田村が「了簡違ニ」引き取って紛争となった。結局、富田村から布忍村に対して持ち場侵害の詫び状を入れるとともに、その牛の皮代として銀一〇〇目を渡して落着した(同上)。
享保年間にも、同じような争いが起きた。同元年八月、石川の東堤が大水で決壊し、死牛が古市郡壷井村(現羽曳野市)の田地に流れ込んできた。この牛の取得をめぐって、富田村と志紀郡A村との間で口論となり、従来どおり、喜志村の本塚から壷井村の八幡山松ケ崎を結ぶ線から南側を富田村、北側をA村の持ち場とすること確認して、富田村がその牛を得た(新堂竹田家文書「差上申一札之事」)。
この二カ村の対立は、その後も続いたらしく、同四年には、古市郡新町村(現羽曳野市)の死牛をめぐって、訴訟にまで発展した。すなわち、同年九月、新町村で牛が死んだことがわかり、富田村から「芝取」の数人が当該の村民宅へ駆けつけたところ、すでにその牛はA村へ引き渡された後であった。富田村に戻すようにとの強い要請に対して、返ってきた答は「今朝ゟ家内へ踏込、何角と存外旁々、殊ニ庭抔穢シ、沙汰之限千万成儀」という、当時の民衆の差別意識を端的に表した侮蔑(ぶべつ)の言葉であった。その後の交渉も、不調のままに終わり、一一月には、「此度横取仕候死牛相戻シ、向後私共支配之領内へ猥ニ踏込横取不仕候ニ」仰せ付けられたいと、富田村本村の庄屋・年寄により、大坂町奉行所への訴願が行われた。訴訟の結果は明らかでないが、一二月、新町村の庄屋は、大坂町奉行所からの照会に対して、「昔からの言い伝えでは、新町村領東堤外の寺井井路の南側は富田村、北側はA村の持ち場であり、この度死牛が捨てられていた場所はその用水井路の北であったので、富田村には引き渡さなかった」と答えており、富田村の主張である「往古ゟ何方ニても其村々御領内限りニ支配仕来候」、したがって、新町村全体を持ち場とする申し立ては、おそらく認められなかったと考えられる(新堂竹田家文書「乍恐以口上書申上候」)。
このような訴訟を反映してか、同月には、摂津役人(渡辺)村から布忍村に対して、斃牛馬処理の持ち場などについての問い合わせが行われた。布忍村は、「口上覚」において、いま意味を理解することはできないが、富田村との持ち場の境界につき、「南方石川郡富田村つき合ハ科内取(とがうちどり)ニ、先年ゟ仕来申候」と書き上げている。そして、翌五年正月、富田村から布忍村に対して「一死牛馬支配之義ハ、古来ゟ其村々之領内かきりニ取来申候事、紛無御座候、為其一札、如件」と、旧格遵守を確認する内容の「覚」が差し入れられた(『河内国更池村文書』二)。
旗本小出主水知行所の錦部郡板持村は、富田村の持ち場であった。享和三年(一八〇三)、板持村民が村内での死牛の取りさばきを忌避して、それを富田村に渡さずに埋葬したことがあった。このときは、富田村本村庄屋が小出役所に出訴し、調停に持ち込んだうえ、今後は先例に従うことで和談が成立した。ところが、三年後の文化三年八月には、有償での引き渡しが求められた。すなわち、同月一日の夜に板持村民の持ち牛が死んだため、富田村から出向いたところ、「銭持参不仕候ハ而ハ、牛相渡不申」と、引き渡しが拒否されたのである(新堂光盛寺文書「乍恐以書付奉願上候」)。従来から無償での引き渡しが原則であり、再度、本村庄屋により出訴が行われた。その後の経緯は知られないが、このような板持村の態度は、牛皮価格の高騰によるものであったと考えられる。