差別は、罪を犯したときの吟味に関しても見られた。重犯は別として、軽微な犯罪の場合は、奉行所や代官所が吟味するのではなく、本村の庄屋・年寄が立ち会ってそれを行うのが「村仕来」であった。
天明元年(一七八一)の夏、富田村の住民が、夜間に路上で女性に対して「傍若無人理不尽致、狼藉」を働く事件が続発した。本村の村役人が内偵した結果、無高の二〇歳になる倅(せがれ)が容疑者として浮かび上がった。会所に呼び出して尋問したところ、同人は「酒ニ給酔、若気之至り」であったと犯行を認めた。
処罰(仕置)が決定されるまでの間、倅は拘束の身となったが、当初は富田村に預けられた。しばらくして、富田村は「屋敷高八石三斗二升八合の地に五五五人が住居し、その八、九割は各地に出かけて諸稼ぎ・乞食などをしているので、村預けにされると、五人組の者が昼夜番をしたり、見回りに当たらなければならないため他出できず、難渋である」と申し立てた。これにより、本村が身柄を預かることになり、「小屋」に入れておくことになった。この小屋は明和六年(一七六九)の「様子明細帳」(新堂平井家文書)に「一 牢屋敷 反別甘八歩 分米壱斗四升」と記されている仮牢であった。この敷地のうち、牢屋は梁行一間・桁行二間で、その外囲いの牢鞘(ろうざや)は梁行二間半・桁行四間の規模であった。牢屋は、更池村・矢田部村・塩穴村・島村など河内・和泉国の被差別部落においては「境之内」と呼ばれていた(盛田嘉徳・岡本良一・森杉夫『ある非差別部落の歴史―和泉国南王子村―』)。しかし、この措置も富田村には飯代などの経費負担を強いるものであり、九月には、同村の願いを受けて村内の円光寺に預けられることになった(新堂光盛寺文書「乍恐以書付奉申上候」「御請書」)。なお、どのような処罰が加えられたのかは明らかでないが、その執行も村方で行うのが習わしであった。