先に述べたとおり、刑の執行はえた役に属したが、犯罪人の探索・逮捕などの警察権を担っていたのは、非人であった。「明細帳」により、新堂・富田林・喜志・錦郡そのほかの村々に「番非人」がいたことが確認できる。彼らは、大坂「四ケ」の長吏の支配下にあり、村から賄料の支給を受け、犯罪人の探索・逮捕のほか、乞食・無宿者の入込防止と追払い、盗難予防などの治安維持に当たっていた。大坂の四ケとは、道頓堀・天王寺・鳶田・天満の四カ所にあった非人の集団居住地域のことで、大坂町奉行所の下で、市中はもとより河内国・摂津国の広域にわたって、警察権を行使していた。
安永四年(一七七五)富田林村番非人と富田村の住民との間で、「口論出入」が発生した。富田林村番非人嘉助の次男善蔵は、新堂村本村において髪結いを営んでいたが、同年四月一五日の夕刻、その女房が富田村のあたりを歩いていたところ、村の子供たちが子守歌を歌っていた。勤め奉公をしていた女房にとり、歌詞に問題があったのであろうか、その子守歌を聞いて大変立腹し、子供たちを責め立てた。そこへ、富田村五兵衛の一七歳になる娘「いや」が、綿蒔きを終えて野良から帰る途中通りかかり、女房に捕まって打擲(ちょうちゃく)された。驚いて泣き叫ぶ娘の声を聞いて、これも野良から帰宅途中の五兵衛が急いで駈けつけ、女房をなじっていたところへ、番非人嘉助・長男嘉七・次男善蔵の親子三人も馳せつけ、激しい口論となった。
その場は仲裁人が出て一応納まったが、番非人たちは、その直後、路上で遊んでいた富田村の子供たちを追い回し、新右衛門の八歳の次男新九郎を捕まえて引きずり回し、乱暴を加えた。さらに、これを制止しようとした長男嘉兵衛に対しても、目をつぶすほどに打擲した。早速、村方の若者たちも出合い、口論・小競(こぜ)り合いが繰り広げられた。多勢に無勢で、番非人たちは傷を負って富田林村に逃げ帰った。
その直後から、富田村の年寄たちは事後処理に苦慮することになった。本村には、庄屋に対して「村方之義、何事ニ而茂取上ケ被成、又腰押被成候故、又して茂ケ様之義出来致し候間、何事茂御構ひ被成間敷候、且又此度口論入用抔茂一向此方ニ掛り不申候」と忠告する者もおり、相談に赴いた北大伴村では、「番人共三人迄手負候間、少々膏薬代出し候而、相済可仕」と聞かされた。しかし、富田村年寄の方針は、村民の合意が得られることを前提にした、「此方ニ茂手負有之候ヘ者、相引ニ候ハヽ引可申候」すなわち喧嘩両成敗であった。
翌一六日の早朝、富田林村から、「此方番人共手負候間、御検使願ヒ可申哉、又々其件可然取繕可被成哉」という、大坂町奉行所に出訴し、傷の検視を受けて処罰してもらうか、詫びて示談にするかの、二者択一を迫る内容の尋ね状がもたらされた。富田村年寄が本村の庄屋に相談したところ、庄屋は後者の考えをとり、「番人ハ表役、其方ともハ商売人之事故、御番所様ヘ出申候ハヽ如何存候間、詫ニ遺し可申」と述べた。これに対して、富田村年寄は、「村方此義承知不仕、番人ハ表役と被仰候義不心得存候、非人番之義ニ候ヘハ非人之制度仕迄と存候、此方ともハ、御公儀様之表役仕り、且又少々ニて茂百姓之義ニ候ヘハ、殊ニ手負茂御座候ヘハ、相引ニ仕候ハヽ引可申、若富田林ゟ御検使願候ハヽ、此方ゟも御検使御願被成可被下様申候」と強く反論した。
同日夜、新堂村会所において、庄屋・年寄らによる評定が開かれ、富田村年寄の主張が全面的に受け入れられた。番非人たちは、このような富田村の意向を見届けたうえで、夜八つ(午前二時ごろ)、大坂町奉行所に出訴するため富田林村を出発した。大坂まで六里の道のりであったので、午前二時ごろ村を立つことは、通例であった。富田村には、深夜にもかかわらず、飛脚から、大坂に向かいつつある番非人たちを平野郷町(現大阪市平野区)で見かけたという知らせが寄せられ、また、すぐ後に触れるが、摂津渡辺村に滞在中の村民からは、上本町(現大阪市)で出会ったという通知があった。情報網の広さには驚くほかない。
富田林村の番非人たちが訴状を提出したのは一八日のことであったが、同日には、新堂村からも本村は庄屋一人、添人二人、富田村は五人の、合計八人が応訴のため大坂に出向き、訴状を出した。富田村は、この訴訟に備えて早くから準備を進めていたようで、一六日の午前二時ごろ、すでに「口論之次第噺、御番所様御取繕ヒ、又ハ宿之義頼ニ遣」わすため、二人の村民を渡辺村に送り出していた。また、一八日に新堂村の八人が訴状を提出したときも、奉行所の溜り場において、渡辺村からも二、三人が付き添って待機しており、渡辺村は、宿の提供だけではなく、各種の支援をしていたことがうかがえる。しかし、訴状は、富田林村・新堂村の両方とも取り上げられなかった。
これを不満とする番非人たちは、翌一九日、富田林村および新堂村を支配していた京都の幕府代官角倉与一の役所に訴え出た。訴えられた富田村民は一四人であったが、二一日には、代官役所から、「相尋義有之」として、その一四人に庄屋・富田村年寄が付き添い、来る二三日に出頭するよう命じた召喚状が届けられた。もっとも、訴えられた一四人のうちには、大病で臥している者二人、紀伊国和歌山の祭礼に行っている者三人、大和国高市郡洞(ほら)村へ「荷持」に行っている者二人などが含まれ、当日事件に関与しなかったことが明らかな者まで訴えられたのは、富田村にとり、理解に苦しむところであった。二三日の京都行きは、富田村からは年寄と村民四人とする手はずが整えられたが、その日川方(堺奉行所)・堤方(大坂代官所)の役人が廻村するため、庄屋が同道できないはめになった。そこで、本村から「日延願」が行われたが、そのとき、代官役所は、訴人には「内済」すなわち訴訟に持ち込まずに、当事者間の話し合いで解決するように指示してあるので、富田村もそれに応じるよう求めた。二六日からは、富田村年寄義右衛門が上京し、「内証廻り」を行った。内証廻りとは、次のような内容のものであった。
義右衛門は、京都に着くとすぐ天部村を訪れた。そこで、すでに代官役所から天部村に対して、富田村の者を一四、五人宿預けにしたいので受け入れるようにとの依頼があったことを知った。次いで、代官役所に公事方井黒甚右衛門を訪ね、事件の詳細につき説明したが、公事方からは、近在や大坂天満から番非人を支持する「頼状」が来ていることや、「村方之者共、平生我儘之様ニ聞へ候、死牛馬支配之節茂、尾籠成物を村内ヲ荷ひ通り、是ヲ制シ候ヘハ態と血を落抔仕候と申義、相聞へ有之候」などと嫌(いや)みを聞かされ、ぜひ内済にするよう申し渡された。
義右衛門が村に帰ったのは、五月二日であったが、すでに代官所は、内々に富田林村庄屋と富田村円光寺に内済(ないさい)の取り計らいを命じていた。七日には、富田林村水分屋六郎兵衛・新堂村土居義左衛門の二人が正式に調停役を引き受けることになり、内済の「一札」が作成されたが、文言について合意が成立せず、最終的には、両人が「貰イ可申」として、文書の作成をせずに落着した。通常、内済成立のためには、訴人・相手方の連署した「済口証文」を役所に提出して承認を得ることが必要であったから、異例な落着の仕方であった(新堂竹田家文書「口論出入裁配記」)。
この一件で注目されるのは、まず第一に、ともに被差別民でありながら、反目が極めて強く、えたと非人の身分間の争いの様相を呈していたことである。富田村は、近世部落の「頭村」的存在であった摂津渡辺村・京都天部村の、番非人は大坂四ケの一つである天満の支援を得ていた。そして、富田村は、番非人たちを「我儘重頭者」と決めつけて、「平生鉄砲・取縄取扱候故、恐敷存」と述べていた。幕府の分断支配政策は見事に結実していたというべきであろうが、差別され、偏見と予断のなかに生きている者同士が差別しあう構図が、そこには見られた。
第二は、富田村住民が持っていた「農業挊(かせぎ)」で「御公儀様之表役仕り」という、百姓としての意識の強さである。それが、当初、この一件を泣き寝入り的な妥協ではなく、訴訟で争う姿勢を確立することにつながったと考えられる。彼らがえた身分から「解放」されるには、さらに幾多の歳月が必要であったが、一八世紀後半において、近世部落でこのような意識が一般化されていたことは、評価に値するであろう。