斃牛馬取得・処理の権利をもとにして、村内において、皮はぎ、精製などの原皮生産から太鼓・雪踏(せった)などの皮革製品生産にわたる一連の生業が展開された。しかし、草場の斃牛馬だけでは日常的な生業にはなりえず、摂津渡辺村に依存するところが大きかった。
渡辺村は、大坂が天下の台所として機能したのと軌を一にして、西日本の各地から原皮を集荷していたが、富田村では、同村中之町の太鼓屋又兵衛から原料・資金の提供を受けて、「賃作曝鼓革仕立」という太鼓の細工仕事が行われていた。どれほどの下職人が従事していたのかは明らかでないが、文政八年(一八二五)三月、富田村の引受支配人三人と太鼓屋又兵衛との間で「申合約定之事」が取り交わされた(新堂竹田家文書)。その内容は、次のとおりである。
すなわち、①皮荷物の保管・管理は引受支配人が責任を持つこと、②皮一枚当たりの「鼓仕立賃銀」は、牛皮三匁九分、馬皮三匁、沓革七匁とすること、③皮荷物は、太鼓屋又兵衛以外からは一切請けないこと、④賃作皮類は、引受支配人が預かり置き、紛失の場合は補償すること、⑤「鼓皮仕立職方細工人之者共」は、鼓革に疵など付けないよう入念に仕上げること、⑤製作のとき、皮に裏取包丁疵が多くあれば、賃金を減じて引き取ること、⑦太鼓屋又兵衛以外から、高値の賃銀で依頼があっても、細工仕立を行わないこと、⑧富田村では、「自用ニ牛馬皮類買取、鼓仕立」て、太鼓屋又兵衛に迷惑をかけるようなことがないよう、取り締まりを行うこと、⑨皮類鼓仕立が終われば、引受支配人が保管すること、などであった。
雪踏は、竹皮草履の裏に牛皮を張りつけた履物である。丈夫で湿気が通らないようにしたものであるが、元禄年間(一六八八~一七〇四)から、踵に「ちゃらかね」と称する尻鉄が打たれるようになった。この雪踏も、近世部落においてのみ生産されていた。富田村において、雪踏作りにどれほどの村民が携わっていたのかは判明しないが、大坂の問屋に従属して村内で生産に当たると同時に、村外においては、無高層を中心に、斃牛馬処理の草場の村々を「得意場」として、雪踏の「直し細工」の稼ぎが行われていた。
このような皮革関連業は、近世部落の代表的な産業とみなされているが、渡辺村のような存在はごくまれで、一般には、糊口を凌ぐ生業としては、わずかの比重しか持たなかった。文政一一年八月の「覚」には、「河州石川郡新堂村領内皮多共、村方一統百姓作間業ニ先年ゟ諸皮類売買仕来罷在候」と述べられている(同上)。「かわた」が「百姓」と称され、皮革業が農業の合間の余業と位置付けられていることから判断すると、富田村では、農業に生活基盤を置き、自己保有地での手作り、村内外での小作や農業日雇などに従事する村民が圧倒的に多かったと考えられる。
文政一一年八月には、村内に質屋ができた。設置の理由は、「革類或者雪踏・鼻緒・毛皮類等質物ニ差入度砌、在家質屋江指入候儀難相成、御年貢上納之時節ニ至り致難渋候間」と説明されている。もとより、年貢上納の便宜などというのは、口実に過ぎない。営業対象は、「新堂村領内皮多内計」で、「皮多仲間ニ有之候共、御他領之者ゟ質取候儀者不相成」という条件が付されていた(新堂竹田家文書「覚」)。冥加金は一年につき金一両で、当時、新堂村を支配していた丹後宮津藩の代官役所に納入された。その後、減額の嘆願が繰り返され、天保二年(一八三一)幕府代官石原清左衛門の支配に変わったとき、ほぼ半額の銀三一匁五分となった(同「乍恐御届奉申上候」)。