竹皮の値下げ運動

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雪踏の原料である竹皮の値下げ運動に、富田村が参加したことが知られる。嘉永二年(一八四九)春から、全国的に竹が枯れたり、虫が付いたりして、竹皮の供給が減り始め、価格が急に上昇した。当時、竹皮は大坂市中の六軒の竹皮問屋から供給されていたが、その値上がりぶりは、二、三年前には一貫目につき銀五匁であった極上物が、同三年には銀二〇目、下物でも銀一二匁になるという大幅なものであった。雪踏作りに関係していた者のほとんどが零細規模であったから、経営上、大きな打撃がもたらされたことはいうまでもない。

 そこで、雪踏作りが盛んであった和泉国泉郡南王子村は、摂津・河内・和泉三カ国の同業に携わっていた村々に対し、竹皮の値下げ運動を行うよう呼びかけた。この呼びかけに応じたのは、摂津五カ村、和泉二カ村、河内は富田村など九カ村、合計一六の近世部落であった。嘉永三年四月、村々は、大坂に出向いて問屋と交渉し、一貫目につき上枝皮銀一二匁、中枝皮銀一一匁、下枝皮銀一〇匁、特選の花緒皮は銀一五匁とする大幅値下げの協定が成立した。史料上は、「在々下方為救、元ヲ切、直段格別ニ引下ケ」と述べている。しかし、問屋側が仕入値を下回る販売価格を受け入れたとは考えられないから、品薄に乗じて恣意的な価格操作が行われていたのが、村々の働きかけによって、是正されたと見るべきであろう。このとき作成された「村々為取替一札」には、「富田林 庄三郎」が惣代の一人として捺印しているが(『奥田家文書』四)、これは、富田村の庄三郎のことであろう。村々の惣代は「重立候者」が勤めたが、庄三郎は、安政二年(一八五五)の「宗門改帳」によると、持高五石五斗五升二合で家を五軒も持つ、村内ではもっとも有力な農民の一人であった。

 ところが、同年六月、六軒の竹皮問屋のうち和泉屋吉兵衛・和泉屋吉右衛門の二軒がさきの価格協定を無視して、高値で販売していることが発覚した。早速、摂河泉の一七カ村は、①今後、両和泉屋から竹皮を買わない、②買ったことが露見すれば、その竹皮を取り上げ、村方の難渋者の助成に充当する、③和泉屋から買った事実を見聞して報知すれば、「骨折料」として押収した品の過半を与える、などのことを申し合わせ、同時に、この両和泉屋に対する不買の取り決めを徹底するため、大坂へ竹皮を買いに行くとき、必ず村役人に届け出る制度も導入された。

 このような村々の統一行動の前に、両和泉屋は詫びを入れ、六軒の竹皮問屋は先般取り決めたとおりの価格で販売することを村々に申し入れてきた。幕末期の物価騰貴のもとで、この運動の成果はわずかの間しか保たれなかったが、団結して行動することの重要性を示した運動として、歴史的意義の大きさが指摘されている(盛田嘉徳・岡本良一・森杉夫『ある非差別部落の歴史―和泉国南王子村―』)。