畑田井路

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畑田井路は、東条川右岸の台地上にある村に灌漑用水を供給する水路であり、森屋村(現河南町)地内において東条川に井堰(いせき)を設けて取水口としていた。この畑田井路を利用する村の水利に関しては後年に筆写された史料であるが、近世前期の様子が判明する(野村豊『水利』)。

 史料は三通あり、いずれも一七世紀前半にこの地方を支配していた領主代官から、渇水の年には上流の村から下流の村へ水を遣わすように指示したものである。水を遣わすように命ぜられた上流の村は、東条川とその上流の千早川および水越川から取水している東坂・佐備・森屋・水分・桐山・寛弘寺の六カ村であり、下流の村は山城・一須賀・北大伴・南大伴・別井・寺田の六カ村である。これらの関係する村のうち、上流の村に佐備村が含まれているのは、野村豊が指摘しているように、千早川に井堰を設けてこの水を山の反対側の佐備村まで導いていたからである。

 これらの指示書は、下流の村からの訴えにより作成されたものであり、渇水の年に上流の村に対して分水を求める際の拠り所とされた。しかし、承応三年(一六五四)には、代官松村の指示に対して上流の村から異論が出たため、下流の村は京都町奉行所へ提訴している(野村豊『水利』)。

 ところで、上述した指示書や裁判の史料では、下流の村は下郷六カ村とか川裾六カ村と呼ばれており、畑田という名称は使われていない。しかし、当時の絵図を見ると、井堰や井路に畑田の名が付けられている。まず、承応三年の水論の時に作成された絵図には、「はた田井碩」という井堰の名が記されている。この絵図は一五〇年ほど後の文化三年(一八〇六)に筆写されたものである(野村豊『水利』に収録)。また、承応三年から二〇年ほど後の寛文一二年(一六七二)に作成された畑田井路の絵図を見ると、井堰の取水口の地点には「はた田井溝口」と記されている(河南町山本家文書)。

写真170 畑田井路
写真171 寛文12年 畑田井路絵図 (河南町山本家文書)

 その後、元禄年間になると畑田井路についての具体的な記述が史料に表れる。虎ケ池の築造に関する元禄二年(一六八九)の史料には、畑田井路の管理について次のように述べられている。山城・寺田・両別井村が組をつくり、井路を管理するための井役を三つに割り、往古から支配してきた。また、川上の森屋・神山・寛弘寺・白木の四カ村は、先例により井役は負担しないで用水を利用しており、川下の三郷が井路の管理に必要なすべてを負担している(野村豊『水利』)。これらの記述から明らかなように、畑田井路の水利用に関しては、上流の村が有利な立場にあり、井路の管理は下流の村が負担していた。

 渇水期の水不足に悩まされた畑田三郷は、近世後期の寛政年間と文政年間にも水論を提起しており、このときの相手は千早川が東条川に合流する地点に位置する東坂村と、山を越えて水を引いていた佐備村であった。

 ここで、畑田という呼び名の由来について、明治初年の史料を手がかりとして述べておく。明治一一年(一八七八)に別井・寺田・山城の三カ村は、森屋村地内において畑田井路の一部付け替えを計画し、堺県に対して工事費の補助を申請している。この史料には、畑田という名称の由来について次のように記されている(野村豊『水利』)。

 畑田井路は森屋村の上ノ芝という所に堰を設けているが、旱魃時には水がこないので旱損にあっている。旱損の時には年貢の算定に当たって実際の収穫を調べるために検見が行われる年もある。ここから畑田と言い習わすようになり、これが井路の呼び名となった。

 こうした由来は、旱魃による不作、年貢の算定をめぐる領主との交渉、井路管理の負担、畑作の拡大などの歴史と体験が近世を通じて語り継がれていく中で形成されてきたものと思われる。

 千早川や東条川には数多くの井堰が設けられているが、これらの井堰の名称は設置された場所の字(あざ)名を付けたものが多いように思われる。しかし、畑田井路の場合は、下流村の地域的な特徴を指す畑田という名称が井堰や井路に付けられており、これは特徴のある呼び方といえる。